藤原清衡と奥州藤原氏の家系図!平泉中尊寺金色堂のミイラと年表!
奥州の覇者藤原清衡とは? 奥州藤原氏の系図と、家系図から人物像と波乱の人生を見ていきます。
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奥州平泉はその中心で平安京の次に栄えた都市でした!
Contents
藤原清衡氏の系図!家系図から見る波乱万丈!
奥州藤原氏の祖は「藤原頼遠」という方は、陸奥の国に移住(または左遷)したと。
「平忠常の乱」
で、平側について、負けたので左遷で「多賀城府」の官人になったという伝えも。
その子が「藤原経清」です。
その子が
「藤原清衡」
ですね。
系図は以下になります。
母は、「有加一乃末陪」で、当時の奥州で現在では宮城県や岩手県のあたりを領する、有力な豪族で
「安倍頼時」
の長女になります。
父「経清」は、南の守りを任される、有力な部下でした。
前九年の役とは?清衡の人生の転換点!
ここでは
- ・前九年の役が起きた原因
・活躍した人
を、簡単に解説
前九年の役が起きた原因は安倍氏の傲慢から?
「安倍頼時」
の天下だった、この「奥州六郡」は、当時は「陸奥の国」と言ってました。
安倍氏は、なかなか傲慢なところがあって、任されていたのですが・・
いつの間にやら、この六郡の境に柵を設けたり、当時の国府は多賀城で、国府の
「藤原登任」(ふじわらのなりとう)
が催促しても、「賦貢(こうふ)」(税金)しないなど、徐々に険悪。
1051年(永承6年):前九年の役勃発
その場所がなんと~~
「玉造郡鬼切部」
というところで、現在は鬼首という地名。
以前、行ってみたことがあるのですが、いや~~これがぞくぞくします。
写真がどこかにありましたが、それはいずれ!
前九年の役で活躍した人!
戦が始まって、当初は安倍氏有利。
しかし、紆余曲折あって「安倍頼時」が矢の傷がもとで他界。
後を継いだのが、勇猛果敢な
「安倍貞任」
この方は、名将で語り草です。
一進一退の攻防が続き、幕府軍はのちに有名になる
「八幡太郎義家」
が登場。
決定打は、前九年の後に、母が再嫁する相手の、出羽の国の俘囚
「清原氏」
です。
兵約1万の援軍は決定的。
最後は「厨川柵」が陥落し、安倍氏は滅亡しました。
清衡の父「藤原経清」は、非業の最後。
この地は、現在
「前九年の役公園」
という、桜の名所になってます。
なんと、住所もこの近辺が、「前九年」になってるから、驚きます。
隠れた桜の名所ですよ~~~
前九年の役の後の清衡はどうなった?
母は、「藤原経清」の正室で、憎き「安倍頼時」娘。
本来ならば、母は女子なので、許されても血を引く
「清衡」
は命がないのですが・・
ところが、まさかの母が、この時の敵将「清原武則」の長男
「清原武貞」
に、再嫁することに。
普通はあり得ないことだと思うのですが、敵将の「清原氏」の情けだったのかもしれません。
同じ奥州の仲間ですから。
一命をとりとめて
「清原武貞」
の養子に。
この時「7歳」とあります。
しかし、「炎立つ」の確か作者の方の説明では、この時は妊娠中だったと。
なので、助かったと‥そういう話でなかったかな~~【そういう話もあるという事で・】
後三年の役とは?清原氏の家督争いで勝利!
後三年の役は「清原氏」の家督相続の争いです。
「清原武則」
の息子は以下の三人。
- 長男:真衡:前妻の子
次男:清衡:本人
三男:家衡:母が再婚後の子
・またまた紆余曲折があって、最初に落ちたのが
「長男:真衡」
が病死。
その後がなかなか決まらず、ここで
「源義家」(八幡太郎義家)
がお出ましになって、下した調停案が
「二人で折半」
なんだな。
しかし、不満の「家衡」は、清衡邸を急襲し、妻子共々全員亡き者に。
間一髪逃れた清衡は
「八幡太郎義家」
に、援助を申し出て、大挙して「家衡」を打ち取り
「奥州の覇者」
になったんだな。
この場合、出羽の「清原氏」の所領と、安倍氏の分と、広大な資産を引く継ぐことに。
まさしく「奥州の覇者」です。
藤原清衡氏の子供とその子孫のその後!
(wikipediaより)
「藤原清衡」公の、家系図は以下です。
長男は、清原氏の娘の子
「惟常」
です。
清衡公が亡くなって、基衡と家督争いが。
どうやら
- ➀:清原派
➁:安倍派
での、二分の争いだったようにも感じます。
この辺は、出自で家臣団の争いもあるでしょうから。
なんか、合併した大手銀行を思いだします。
勝ったのは「基衡」で、家督を相続します。
奥州藤原氏の二代目になります。
他は、委細は判明しません。
母も不明で、やはりこんだけ昔のお話だと。地方は記録がないのですね。
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wikipediaの情報をもとに、他も参考にして私が作成しました。
??な部分があっても、ご容赦ください。
参考という事で。
藤原清衡氏のしたこと年表で!
「藤原清衡」
氏のしたことを年表形式で、以下の表にまとめてみました。
天喜4年(1056年) | 生誕:父:藤原経清:母:有加一乃末陪(安倍頼時娘) |
康平5年(1062年) | 前九年の役終了:母が出羽の「清原武貞」と再婚(安倍氏滅亡の立役者いわば宿敵) |
寛治元年(1087年) | 32歳:後三年の役終了で清衡が勝、名実ともに奥州の覇者になる。 |
その後 | 当初の本拠地は江刺郡豊田館に構え勢力の拡大に努める |
翌寛治7年(1093年) | 出羽国府の秋田城を襲撃する反乱が発生も翌年鎮圧。 |
寛治8年(1094年) | 陸奥の押領使拝領と推定 |
嘉保年中(1094年 – 1095年) | 磐井郡平泉に居を移し、政治文化の中心都市の建設に着手。 |
1108年 | 中尊寺造営を開始して壮大な中世都市平泉の原型をつくる。 |
貿易 | 宋王朝との貿易で一切経の輸入や北方貿易も行い繁栄。 |
大治3年(1127年) | 奥州平泉金色堂落慶 |
大治3年7月13日(1128年8月10日) | 没:73歳 |
その後、奥州藤原氏は、系図のように
- 二代:基衡
三代:秀衡
四代:泰衡
と続き、残念ながら鎌倉殿との「奥州合戦」で、滅亡します。
「清衡公」
が、「清原氏」の家督を継いだのは32歳。
ほぼ40年で、一大帝国を作り上げたわけです。
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鎌倉殿の周辺の武将、源氏と平氏と奥州藤原氏などを、まとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
本ブログ内の、鎌倉時代の武将記事へのリンク集です。
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藤原清衡氏と源氏と平家と鎌倉殿との関連!
「藤原清衡」公
と、源氏の関係は、この時は全く以て良好。
何せ、後三年の役では、清衡氏の家督相続調停人が、なんと
「八幡太郎義家」
ですから。
「源義家」
のバックアップがあって、後三年の役で勝利し、清原氏の家督を相続し、母方(安倍氏)の旧領も悉く、手に入れたのですから、良好でした。
「清衡」
の時代には、大きな戦もなく、平和な時代でしたね。
鎌倉殿の「源頼朝」はこの義家から数えて、4代くらい後のお話。
平家は、まだまだ台頭していないので、歴史は奥州では、止まっていたのかも。
この奥州の平和が、今や世界遺産の
「奥州平泉」
を大きく発展させたのだと思います。
戦ばっかりでは、繁栄するどころか、戦費もかかりますから、衰退の一途かと。
ある意味、運がよかったのでは?
が・・都の方では、その時期には、歴史的には大きな事件が次々と。
朝廷に従順で、いさかいを好まず、平和主義者。
そんなイメージを、私は感じます。
奥州藤原氏のの本拠は世界遺産奥州平泉!
奥州藤原氏の本拠地は、「奥州平泉」。
現在の「平泉町」に、位置します。
世界遺産に登録されました。
中でも
- ➀:中尊寺:円仁(慈覚大師)
➁:毛越寺:円仁(慈覚大師)
と言われますが、どうも定かではなさそうですが、実質再建したのは
「藤原清衡」公
です。
なお、その寺にあと二つ。
- ➂:山寺:山形市
➃:松島瑞巌寺:宮城県
も、円仁(慈覚大師)の開山と言われて、東北の古寺巡礼
「四寺回廊」
として、御朱印など発行しています。
私も回りました。
その時の記事がこちら。
四寺回廊とは?東北みちのく古寺巡礼の山寺や瑞巌寺の御朱印は?
実際に4つの古寺を回って、御朱印をいただきました。
また、回ってみたいな~~と・
金色堂には奥州藤原3代のミイラ安置!
金色堂は、中尊寺から100m~ほど行ったところにあります。
すぐです。
写真は、次の項で紹介します。
私は大好きで、中尊寺は年に数回写真を撮影に行きます。
勿論、中は撮影禁止です。
解説の、パンフレットなどで、よく見る、真ん中の段の下に安置されています。
この調査の時の動画を、記念館で公開しています。
一般公開もその時したのですが、それを私の父と母が見に行ったのを覚えています。
多分今から40年以上前の事です。
金色堂の中尊寺金色堂須弥壇の金棺内には、「藤原4代」のミイラが安置されている。
ただし「泰衡」は種々あって、一部が収められている。
昭和の時代に、その調査が行われて、讃衡蔵(すぐ隣にある)では、多くの文化財品が展示してあります。
ぜひ、来たら見学してみてくださいね~~
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鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
木曽義仲(源義仲)の源氏の系図と、家系図からその子孫のその後など解説。
木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!
奥州藤原氏と、関係が深い、義経最後の地でもあります。
源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!
源義経の、平泉のゆかりの地など、写真で案内しました。
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奥州平泉紀行!写真で世界遺産を紹介!
全てはもちろん無理ですが、一部だけでも、世界遺産を紹介します。
1:中尊寺
2:金色堂
2-1:金色堂の御朱印
3:金色堂覆い堂
今の覆い堂ではなく、元はこちらに入っていました。
*中尊寺については、こちらで写真付きで、詳しく紹介しました。
中尊寺金色堂と世界遺産本堂の御朱印!駐車場と観光のアクセス情報!
4:毛越寺
4-1:毛越寺の庭園:大泉が池の風景写真
5:高館義経堂
源義経の最後の場所だと言われています。
6:源義経の妻子:郷御前と女子の地蔵尊
他もたくさんあるのですが、こんなところで。
是非、東北においでの際は、足を運んでみてください。
*写真はすべて私の撮影です。
7:四寺回廊の御朱印の写真
4つの古寺が、すべて埋まりました。
とてもいい巡礼でした。
でも、車じゃ~~ちょっとね~~とは思います。
奥州藤原氏の感想とまとめ!世界遺産は誇りだ!
「藤原清衡」公の人生はまさに
「波瀾万丈」
ですね。
しかし歴史とは、まさに不思議なもの。
「清原武貞」
氏は、清衡の母の出自の「安倍氏」を、朝廷方の
「源義家」「源頼義」
とともに、滅ぼした張本人。
清衡の母は「藤原経清」の妻で、その「藤原経清」は非業の最後。
その方基とも言うべき「清原氏」の息子と再婚????
今では考えられないのですが、これは全くの私見ですよ~~~
清原氏は、出羽の国(今の山形と秋田県あたり)を管轄する豪族。
安倍氏は、今の宮城岩手周辺を有する豪族。
前九年の役前までは、多分この二人は仲良し!
ところが、何がどうなったか、詳しく書いたらきりがないのですが、戦が始まった。
「清原氏」は静観。
が・・しばらくすると、朝廷側(源頼義)から、やんやの催促と貢物と、多分脅しも。
これを断ると、今度は我が身か??
致し方なし・・で参戦。
自分のせいで「安倍氏」は滅んだ。
責任を痛感して、普通はその血を引くもの共々、なのですが、女子は問わずで、ちょうどいいか‥と、わが子と再婚させよう。
安倍氏には、これで何とか面目を・・
そんな思いだったかも。
武士の情け!!
を、私個人では、連想するんだよね~~
一族郎党・・が基本のところ、「清原氏」の参陣で、勝利を収めた源親子も、その懇願は断れず。
ここは都から遠いから、まいっか~~と。
この推測どうでしょうか?
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源頼朝の源氏の系図と、家系図で子孫のその後など。
したことなど年表で解説しました。
源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!
武田信義は甲斐源氏の祖です。
武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!
ここから、甲斐源氏が始まり、その何代目??
武田信玄が登場します。
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*ヘッダーの写真は、私が撮影した鎌倉の円覚寺の紅葉の写真です。