阿茶の局(雲光院)の家系図と子孫!家康公の側室で最も愛された女性

「家康公」の側室で最も頼りにされ常にそばで仕えた女性は「阿茶の局」ただ一人。

  • ①:阿茶の局の家系図と子孫その後
    ①:家康公からの信認の理由
    ③:大坂夏の陣の外交手腕

 

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家康公との間の子は無くともつながりは正室以上の存在!

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「阿茶の局」の出生と親と子の家系図

阿茶の局の肖像画
(wikipediaより)

「阿茶の局」
本名:須和
「雲光院」
と称します。
家系図は以下。

阿茶の局の家系図

「阿茶の局」
本名:須和
生誕:天文23年2月13日(旧暦:1554年3月16日)-寛永14年1月22日(旧暦:1637年2月16日)
父:飯田直政:甲斐武田氏家臣
夫:神尾忠重:結婚3年で戦死
子:
長男:神尾守世:秀忠に近侍(小姓)その後の記載なし
二男:神尾守繁:その後の記載なし
養子:神尾元勝:おそらくですが神尾家再興(私見)
養女:菊姫

「徳川家康公」
の側室の中で一番の信頼を得ていた方。
「側室」
の、奥向きのすべて任されていた方に思います。
そして常に家康公のおそばに控えて仕えていた女性。
信任は絶大だったようですね。

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「阿茶の局」の人生を年表に表示!主な出来事のまとめ

家康公が住んだ駿府城の写真
(写真AC)

以下の表にまとめてみました。

天文23年(1554年)2月13日誕生:父飯田直政
天正2年(1574年)「神尾忠重」に嫁ぐ
ほどなく二男をもうける:神尾守世:神尾守繁
天正5年(1577年)7月「神尾忠重」死去:戦死とも
天正7年(1579年)徳川家康公に側室として召される
天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」に従軍:陣中で懐妊も流産:以後懐妊なし
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い:小早川秀秋の調略に関与の説あり
天正17年(1589年)「西郷の局」死去により秀忠公の母代で養育:神尾守世秀忠公の小姓に。
「忠吉」も同じように母代として養育
慶長19年(1614年)大坂冬の陣で豊臣家との和睦に貢献。大阪城の外堀を埋める条件勝ち取る
元和2年(1616年)徳川家康公死去:在家のまま「雲光院」を名乗る(剃髪はせず:家康公遺言)
その後江戸に移り住む:竹橋(後に神田移転)に屋敷と300石の化粧料が与えられる。
徳川家康拝領の黄金2,000枚(2,000両)で「雲光院」(うんこういん)と称する寺院を創建する。
慶長16年(1611年)元和6年(1620年)秀忠公五女「和子」(まさこ)後水尾天皇の女御として入内。「和子」の母親代わりで随行。その後「和子」懐妊や出産でたびたび上洛する
寛永7年(1630年)徳川秀忠公・家光公上洛時に供奉する
寛永9年(1632年) 徳川秀忠公が逝去:同時に剃髪し仏門に。正式に「雲光院」を名乗る
寛永14年(1637年)死去:享年83歳:墓所:雲光院(東京都江東区三好)
戒名:「雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉」

「徳川家康公」
とともに乱世を駆け抜けて
「天下統一」
に大きく貢献した女性であることは間違いがありません。
しかも、一番「家康公」が信任を置いた女性と言えます。

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「阿茶の局」の優秀さを表すエピソード:

家康公が住んだ駿府城の写真
(写真AC)

「阿茶の局」にまつわるエピソード

  • ①:家康公の装束の見立て
    ②:酒井家次の綿帽子
    ③:秀忠公の鷹狩事件

について解説します。

家康公の装束の見立てと手配

とにかく天下人と称される、天下人以前もますます人と会う機会が多い
「徳川家康公」

普段着から、フォーマルから正装まで一日何回着替える?
そんな日もあったかもしれませんね。

そんなの自分で決められる?

いえいえ・きちんとデザイナーがいてコーディネーターが・・
実は、それも
「阿茶の局」
の役割。

「殿、今日は伊達様がお目通りですよね。あの方はとてもおしゃれな方と聞きますから、殿もこのような柄はいかがですか?とても似あいますよ」
「お~~これか‥しかし少し派手ではないか?」
「いえいえ・まだまだお若いですからこのくらい派手でないと伊達様に遅れを取りますよ」

などと言った会話・・ないですね。
いずれ「装束」の管理は大事。
信任がないとこうはいきません。

家康公の鷹狩禁漁区の罠

「家康公」は大の「鷹狩好き」
現代なら大の「ゴルフ好き」と同じようなもの。

自身専用の原野を禁漁区に。
が・・あろうことか「秀忠公」の部下の二人がわなを仕掛けたことが発覚。
当然「家康公」は怒った!

「秀忠公」
は当初「阿茶の局」にとりなしを依頼。
さすがにこの件は「阿茶の局」でもダメ・

次に頼んだのは「本多正信」

「秀忠公はその二名を断罪に処す所存だがこれしきで命を懸けるのはいかがなものか!」

その先もあるのですが、すぐに「阿茶の局」に許す所存が伝えられ安堵。
こんなことも。

酒井家次綿帽子の自然なフォロー

江戸城から駿府に使者と派遣された
「酒井家次」
徳川四天王の一人
「酒井忠次」
の二男で家督相続した堂々たる酒井家の後継者。

が・・時は冬・・寒い。
馬を飛ばした(多分)酒井家次は折烏帽子(おりえぼし)の下に防寒用の綿帽子を付けていたと。
帽子を二つかぶっていた?・・たぶん。

ところが、そのまんまの姿で
「家康公」
に拝謁。
運悪くその中の「綿帽子」が見えてしまったんだな~~

家康公はその根性の無さを叱責。
が・・同席の「阿茶の局」がさりげなく

「風邪をひき、拝謁が難しい状況のため、私が綿帽子をかぶるように助言をしました」

と・・
「なるほど、さすがは「阿茶の局」そちは気が回るの~~」
と言ったかどうかはわかりませんが、叱責はなしで収まったと。

こういう自然な気遣いが大事なことで、しかもさりげなくできて、しかもそれを受け取る方も
「その方が言うのなら・・」
そんな以心伝心が伝わってくるようですね。

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「阿茶の局」の大功績:真田丸出現で不利な大坂冬の陣の外交成果

家康公が住んだ駿府城の写真
(写真AC)
これはあまりの有名なお話。
「大坂冬の陣」
では「真田丸」が出現し大損害を受けた徳川軍。
そこで和議を結ぶことに。
どちらも戦は好まず・・特に豊臣方は。

まさにこの和睦が「豊臣家」滅亡のきっかけでしたね。
「真田信繁」
ら武将は「主戦論派」。
しかし「淀殿」の意向は無視できず。

大阪方の和議の先鋒はまさにその
「淀殿」
ならばこちらも女性で。

そこで「阿茶の局」を読んで徳川の主要メンバーで「協議」
その結果徳川方は
①:阿茶の局
②:本多正純
で決まり大阪方は
③:常高院(おはつ)
④:大蔵卿の局
で決まりました。
「常高院」
を引っ張り出したのは「阿茶の局」

ま~~この時点で勝負あったですね。
政治や戦に疎い大坂の二人では丸め込まれておしまいでしょう。
案の定条件のポイント

⑤:大坂城の二の丸、三の丸を破壊し、城の惣堀を埋める
⑥:真田丸も破壊

その代わりに
⑦:淀殿と秀頼に身の安全は保障
これで決まったんだな~
人質の効果もありましたが、こちらは小さいこと。

この交渉をまとめたが
「阿茶の局」
と言われます。
「家康公」
の外交スタッフとしては抜群の能力を持っていた方。

「側室」
とはいえ身の回りお側用人その他一切を仕切っていた方。
こういうできる方、そう相違いないでしょうな~~

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「阿茶の局」(本名:須和)の生き方と感想

家康公が住んだ駿府城の写真
(写真AC)

「阿茶の局」
の生きた時代は、まだ武田氏が健在。
父は武田氏の家臣です。

嫁いだ先は、もと今川家家臣で一条信龍に属した
「神尾忠重」
と言う方。
しかしたったの4年弱で結婚生活は終わってしまいます。

「須和」(あ茶の局)
は子を抱えて路頭に迷ったとあります。
当時は武田氏もそろそろと言うタイミング。
混乱を極めていたと思います。

どうやって家康公と出会ったのか?

どうなんでしょうね?
ずいぶん以前の大河ドラマのシーンですが、私の記憶ですからあてにならないのですがこんなシーン。

「家康公」
を先頭に軍が行進中。(確か勝ち戦)
街道には人々が立っていたり土下座していたり、感謝する人々など。

その中の一人の女性に目が留まり馬を止めて
「その方名はなんともうす?」
こんなシーンがあったような。

現実はわかりませんよ~~
「滝田栄」
さんの時かもな~~と。
今懐かしく思っています。

あともう一つのシーン。
「津川雅彦」さんのシーン。

阿茶の局に

「今日の夜伽は誰だ?」
「・・・でございますがよろしゅうございますか?」

側室の夜の差配まで行っていたんだべな~~と。

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*ヘッダーの写真はわたしが撮影した、毛越寺の写真です。

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