福島正則の家系図!戦国無双の槍の使い手も改易の理由に見る悲哀!

「福島正則」は槍の名手で知られる戦国屈強の武将。
家系図と戦国時代の功績を年表にまとめてみました。

  • ①:福島正則の家系図で見る子孫その後
    ②:戦国時代の功績年表で関が原も解説
    ③:改易の理由や槍の逸話
    ④:家紋や兜や墓の情報
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福島正則は太閤殿下へ忠誠で揺れた義の人!

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「福島正則」公の出生!親と子の家系図

福島正則公の肖像画
(wikioediaより引用)

「福島正則」公は
「永禄4年(1561年)」
に誕生。
幼名は「市松」
と言いました。

生まれ場所は
「尾張国海東郡二ツ寺村(現・愛知県あま市二ツ寺屋敷)」
と言われ桶屋を営む福島正信(正光)の長男として生まれたという。
母は「豊臣秀吉」公の母
「大政所」
の妹で「松雲院」という方。

まあ~~太閤殿下の一族と言っても過言ではないかと。

家系図は以下です。
福島正則の家系図

*wikipediaを中心に情報を整理して私なりに作成してみました。
側室正室での子供に正確さが多少無さそうに感じますがそれなりに。

残念ながら「築城」の疑念、そのほかの不手際(?)があり改易の憂き目に。
しかし、戦国の世にはなくてはならない武将でしたね。
一世を風靡したといっても過言ではないと思います。

「福島正則」公の戦国時代の功績を年表で解説

福島正則公の銅像

「福島正則」公
の戦国時代でのしたことと、功績を年表にまとめてみました。
残念ながら改易になりましたが、そこまでをまとめてみました。

永禄4年(1561年)尾張国海東郡二ツ寺村で誕生:父:福島正信(正光)の長男
生年時秀吉の小姓になる
天正6年(1578年)三木上攻めで初陣:石高200石
天正10年(1582年)山崎の戦いでの軍港で:石高500石
天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る:石高5,000石
賤ヶ岳の七本槍に数えられ一番の功:他は3,000石
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い:父正信とともに300の兵で参戦
その後根来寺攻めや、四国征伐に参戦:
天正15年(1587年)九州平定の後、9月5日に伊予国今治11万3千余石を与えられ大名の仲間入り
小田原征伐織田信雄の軍として、蜂須賀家政・細川忠興・蒲生氏郷などとともに韮山城を攻撃
文禄元年(1592年)文禄の役では五番隊の主将として参戦:京畿道の攻略にあたる。
文禄3年(1594年)1月再び挑戦に出兵
10月朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した際(場門浦海戦)には反撃し撃退
文禄4年(1595年)7月秀次に切腹の命令を伝える役目
同年尾張国清洲に24万石
慶長3年(1598年)羽柴の名字が確認される
慶長3年(1598年)8月太閤殿下(豊臣秀吉公)死去
慶長4年(1599年)前田利家死去で一気に石田三成と不穏な空気に。
慶長5年(1600年)会津征伐に喗6,000で参戦。
関ヶ原の戦い宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行う。
関ヶ原の戦い後安芸広島と備後鞆49万8,000石
慶長8年(1603年)芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始める
慶長9年(1604年)諸城修築の動員に参加:しかし気持ちは豊臣家にありそうな予感
慶長16年(1611年)3月秀頼が家康公謁見で秀頼の上洛を実現させる
慶長17年(1612年)隠居を願い出るもかなわず
大坂の冬・夏の陣従軍は許されず江戸留守居役を命じられる
元和5年(1619年)安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封
寛永元年(1624年)高井野(長野県高山村)で死去した。享年64

関ヶ原の戦いの折には率先して
「徳川家康公」
に味方し、他の武将への徳川の流れを作った功績は大なののですが、どうにも
「豊臣家」
に対する思いの方が強かったのかな~~と。

一貫性がちょっとな~とも思うのですが、本人は悩んだべな~~と・・それはそうだよね。

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「福島正則」公の関が原!豊臣秀吉公への義の人

関が原古戦場後

「福島正則」公の
「関ヶ原の戦い」
はどんなだったのかな~~と、少し振り返ってみたいなと。

なにせ「石田三成」とは文禄の役など
「朝鮮出兵」
での、後方支援での不満で一触即発の危機的状況。
この時点での石高は
「尾張国清洲に24万石」
です。

なにかと「徳川家康」公とは懇意に。
「石田三成襲撃事件」
もとりなしで大事なしに。
養子「正之」と家康の養女・満天姫との婚姻もあり完全な
「東軍」
かと。

会津征伐(上杉討伐)に6,000の軍勢で従軍。
極めつけは

「小山評定」

「石田三成」
挙兵を受けての今後を占う大事な徳川方の方針会議。
その場で、いち早く
「家康殿にお味方いたす所存ここに誓約申し上げ候」
と言ったかどうかは全くわかりませんが、しかしながらいの一番に
「徳川家康」公に味方すると誓約したのは事実。
これを機に、同行の諸将はほぼすべて徳川方となり反転して
「西上」
する方針を採択。

これは大きかったですね。
会議では、必ず誰かが汚れ役を引き受けて、先陣を切る役目が必要かと。
これは今の企業社会でも同じではないでしょうか?

関ヶ原の戦いでは「宇喜田秀家」軍17,000と対峙し見事に前進を阻み功績を上げました。

そのかいあって、後の恩賞では

安芸広島と備後鞆49万8,000石(広島藩)

をいただくことに。
が・・何せどうも福島正則公は気が短い方だったようですね。
根回しがどうもうまくなかったのかな~~
その後「改易」になりますが、これはまた別の章で。

「福島正則」公の大坂冬の陣と夏の陣

広島城の写真

「大坂冬の陣」
「大坂夏の陣」
は「徳川家康」公の絶対権力の象徴を決めた大事な一戦。
勝負はもちろん槍を交える前から見えていたのですが、しかしながら
「豊臣恩顧」
の大名に対する「踏み絵」のようなものかもしれません。

その典型が
「福島正則」公
かと。

慶長13年(1608年):豊臣秀頼の病を見まいに大坂城へ行く。
慶長16年(1611年)3月:秀頼公と家康公の二条城での謁見を成功させる(淀殿説得)
*しかしこの際病と称し実際は不測の事態の備え
「10,000の軍勢」
で京の街道を埋めた。
大坂の陣:秀頼から加勢の依頼:断る
が・・大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認。

大坂夏の陣では一族から豊臣軍に加わるものもあり
「一枚岩ではない」
ことを露呈する。

なので・・
徳川家康公からは
「従軍まかりならん!」
と言われ「江戸留守居役」を仰せつかる。

「余計なことはせずにじっとしておれ!」

と言われたも同然に感じます。
約50万石ですから兵の動員数は相当なもの。
それを率いて前線で心変わりされたのではこれは大変!

そう思われても仕方のない、豊臣家に対する心情は見え見え。
言い替えると、本人を江戸で人質にしたようなものにも思えます。

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「福島正則」公の改易の理由!武家諸法度の最初の犠牲者?

広島城の写真

「武家諸法度」
は以下のような法律

武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代初期の1615年に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法[1](武家法)である。ここでいう武家とは天和令までは旗本御家人や藩士(幕府からみた陪臣)など広い意味での武家は含まず、大名のことを指す(幕臣については武家諸法度を照応した諸士法度で規定され、天和令において統合された)。
(wikipediaより)

幕府が「大名」に対して
「勝手な所業は許さない」
という法律。
その中に「お城」の築城や改修があります。

元和5年(1619年):台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕

申請は出していたが
「許可」
がおりてなかった。
お沙汰は
「修繕した部分を破却するという条件」
で手打ちに。

が・・「福島正則」公、何を思ったか

「本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分はそのまま」

これと自身の人質(忠勝)の処遇などで
「将軍徳川秀忠」公の逆鱗にふれ

安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受ける。
移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居し出家して高斎と名乗ります。

しかしここで家督を譲ったはずの
「忠勝」
は早世。
幕府に「2万5千石」を返還。

寛永元年(1624年)「福島正則」公はこの地でなくなります。
が・・さらに悲劇が。

何と、幕府の検死役が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。
何かこれって、出来レースだったような気もするな~~と・・個人的には。

一旦目を付けられると,最後まで逃れることはできない封建的なものを感じます。

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「福島正則」公の死因と墓の場所

「福島正則」公
の死因については、いろんな説があります。

しかし、人間の死というのはやはり精神的なものはかなり重要な要素かと。
「絶望」
これは「福島正則」公の中では

  • ①:大幅な減給
    ②:子の死

この二つは最大の要素。
享年は「64歳」ですから、当時としては長生きの方だったかもしれませんが、落胆の程度は
「推して知るべし」
かと。

お墓ですが複数存在しています。

  • ①:正覚院:東京都港区にある臨済宗妙心寺派のお寺
    ②:岩松院:長野県小布施市
    ③:菊泉院:愛知県あま市

③番の菊線院は正則公の肖像画も納められています。

「福島正則」公の兜と家紋

「福島正則」公の

①:兜
②:家紋

について紹介します。

福島正則公の兜は「一ノ谷兜」

「福島正則」公
の兜は有名。
「一ノ谷兜」
と言います。


(wikipedia百科事典より)

尤もこの兜は最初は
「竹中半兵衛」
が作ったものと言われるようですね。

「一の谷」
は有名な源平合戦で源氏の勝利につながる転換点の戦い。
ある意味、勝利を決定づけた戦いです。

それにあやかろうとした考えがあっても不思議ではないかと。
が・・そのあとは
「兜交換」
で「黒田長政」の物になりました。

しかし・・奇抜な代わり兜のデザインですね~~

福島正則公の家紋は「福島沢瀉」(ふくしまおもだか)

「福島正則」公の
家紋は
「福島沢瀉」(ふくしまおもだか)
と言われるもの。
かなりの思い入れの家紋だったようです。


(フリー素材より)

「沢瀉」(おもだか):池や沢に自生の水草の一種
別名:「勝軍草」(かちいくさぐさ)

この説明だけでも縁起を担ぐには最高の家紋をイメージ。
戦国と以前から多くの武将が採用したかもんです。

豊臣秀吉公も「木下藤吉郎」の時代から採用し、実は正室
「ねね」
の実家もこの「沢瀉」(おもだか)を採用していたと。

実はこの家紋は「太閤殿下」より拝領の
「縁起のいい家紋」
忠誠の証。

豊臣家家臣団のなかで、徳川の世になっても使い続けたのは
「福島正則」公
ただ一人。
豊臣家に忠誠の証でもあり、忠義のしるしだったのかもしれません。
が・・徳川の側から見たら
「面白くない存在」
だったことは確かでしょう。

「沢瀉」(おもだか)紋は、日本重大家紋のうちの一つに数えられる名紋。
同じ「沢瀉」(おもだか)紋でもその数
「30種類」
ほどを数えるようです。

「福島正則」公の槍:日本号の呑み取られ事件

「黒田節」
の歌の歌詞にもなったエピソード。

福島正則は大の酒好きの大酒豪。
黒田長政の使いに指名された
「母里友信」
もまた、黒田家中では有名な酒豪。

指図は
「誘われても絶対に酒は飲むな!」
でしたが・・それを不服としたのは
「福島正則」

良い飲み相手のはずが、いくら進めても固持する
「母里友信」
に対し、腰抜け呼ばわりで罵倒寸前(多分)まで行ったのですが、そこで
「福島正則」
が出した条件が
「これを飲み干せば、何でも褒美を取らす」
と。

仕方がないとあきらめて、その杯を飲み干して、望みの物というのは実は
「豊臣秀吉から下賜された自慢の槍の日本号」
だったというお話です。

見事名刀ならぬ「名槍」を手に入れた
「母里友信」
は朝鮮出兵で大いなる武功を上げたといわれます。

大酒飲みはやはり損気だな!
歴史にも刻まれます。
太閤殿下に怒られなかったかな?

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「福島正則」公の名言3つ

「福島正則」公
の名言を三つほど紹介。

①:酒船一艘失ったとて大したことではないが、 指図を受ける手立てのないとき、汝の一存で秀家公に酒一樽を贈ったとは、よく計らってくれた。もし汝が、われを憚って秀家公の所望する酒を惜しんでいれば、われは吝嗇(りんしょく:ケチなこと)の汚名を残したであろう。

福島正則は江戸に住んでいたが、大の酒好きでその酒は大阪より取り寄せていたと。
しかし、ある時その船がしけで八丈島に一時避難。
そこに、関ヶ原で槍を合わせた宿敵の
「宇喜田秀家」
は遠島での島流しでいたんだな。

「秀家」
はその船の管理人は頼み込まれて酒樽を
「一個進呈」
します。

現在でも用いられる
「現場の差配」
の重要性。
いちいち親分の指示を仰がずとも、上司の意をくんだしかも周囲の状況をしっかりと把握したうえでの差配をしろ‥という格言かと。

②:時すでに3年早く、3年遅かった。こうなってはあとの祭りである

大阪の陣の時の言葉。
大阪方から味方に・・の打診に対しての返答の意味かと。
断ったのですが、一戦交えていれば結構なロマンがあったかもしれませんね。

なにせ、大阪方には統率のとれた軍は無いのですから。
「真田幸村」
以外は・

③:弓を見てみよ。敵があるときはこのうえなく重宝な物だが、国が治まっているときは袋に入れて土蔵に入れておく。わしはつまり弓である

必要とされる時が花ですね。
必要とされなくなれば、何の意味もない人。
企業においても
「Aさんがいなければ・・」
でも、実際いなくなると、何事もなかったように仕事は回っていきます。

いたときはあんなに重宝されたのに・・って、今の私のような気もします。

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「福島正則」公の戦国感想とまとめ

「福島正則」公
の、誕生から

  • ①:豊臣秀吉公の時代。
    ②:関ヶ原の戦い
    ③:徳川幕府の時代
    ④:大坂の陣

などなど、どう対応してきたか人となりも含めて書いてみました。
家紋のお話で書きましたが

「沢瀉」(おもだか)紋

という家紋で、豊臣秀吉公から下賜された家紋。
多くの「豊臣恩顧」の武将が廃棄する中、最後まで忠義を貫き使い続けました。

「忠義の人」

なんだと思います。
ただ、大酒飲みでしかも短期で気も変わりやすい。
この辺がやはり周囲の空気を読めない感が出ているな~~という気がします。

しかし、戦国の時代にあって
「一時代」
を風靡した武将であることは間違いがありません。

「市松」
と言われ、木下藤吉郎の後をつけて加藤清正と一緒に歩く子供時代の映像が
「大河ドラマ」
のシーンでありましたが、あんな感じなんだべな~~と思います。

「福島正則公」
皆さんはいかが思いますか~~~?

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*一番上のヘッダーの写真はわたしが撮影した通りすがりの木の風景写真です。
いい風景だな~~と。

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