源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!

鎌倉鶴岡八幡宮

源頼朝は源氏宗家の家系!
源氏の家系図で、源頼朝の位置を確認。
妻と側室と子供の名前や、征夷大将軍に至るまでにしたことや、そのあとの生涯を年表で。
政子と頼朝の子孫は、絶えてしまい残念。

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源頼朝の家系図を源氏の家系図から!!

 


(wikipediaより)

「源頼朝」
の、位置をこの源氏の家系図から。

河内源氏の家系図1
(wikipediaより)

正当な源氏の嫡流です。
前九年の役と後三年の役の「八幡太郎義家」がつとに有名かと。
しかし、その後平家の台頭で、力がどんどん落ちていきます。

平治の乱の敗戦で、父「義朝」がなくなり、伊豆に流されますが、そこから北条氏のバックアップで復活。
征夷大将軍に上り詰め「鎌倉幕府」を開府します。

二代将軍「頼家」は、紆余曲折あり早世。
しかし、わが子次男の三代将軍「実朝」はわが子「頼家」の子供(孫にあたる「公暁」)によって、亡き者に。
これは悲劇。
そこから、北条氏の執権政治が始まります。
頼家の子も非業の最後。

頼朝と政子の血筋は、そこで絶えてしまいます。(この辺はまた別の機会に)

 

源義朝の正室と側室と子供は何人!

 

鶴岡八幡宮の写真
(2020年1月管理人撮影)

「源頼朝」
の家系図や兄弟を語るうえで、まずは父親の「源義朝」の子供(頼朝の兄弟)から、確認しないといけないですね。
「源義朝」
は、子供が多かったです。
みな、道半ばでなくなりましたが、そういう激動の時代です。

源義朝の正室は由良午前!

正室は「由良午前」
出自は「熱田大宮司家」。
子供は

  • 1:頼朝:三男:鎌倉幕府開府征夷大将軍
    2:義門:四男:早世したとされる
    3:希義:五男:平家により討ち取られる
    4:坊門姫:九条良経室:嫡男高能は頼朝に重用

頼朝は三男ですが、正室の子供なので「跡目相続」は優先です。

源義朝の側室とその子供たちとその後!

「源義朝」には、側室が4人いました。
一番有名なのは、やはり「義経」の母の「常盤午前」かと。

1:常盤午前:九条院(藤原呈子)の雑仕女とのみ記載
子供
:今若(後の阿野全成):七男:頼家の命を受けた八田知家によって誅殺:享年51歳
:乙若(後の義円:八男:平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた:享年27歳
:牛若(後の源義経):九男:衣川館で自刃:享年31歳

2:側室三浦義明の娘

:源義平:長男:平清盛暗殺に失敗して命を落とす

3:側室波多野義通の妹

:源之朝長:次男:平治の乱のケガがもとで命を落とす

4:側室遊女

:範頼:六男:頼朝に謀反の嫌疑で誅〇

不明:子は女子:定かでない

合計で、源義朝の子は
「九男二女」
になります。
しかし、遊女まで側室とはね~~

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源頼朝の家系図は?正室と側室と子供とその後!

 

「源頼朝」
は源義朝の、三男ですが正室「由良午前」の子で、正室から見たら長男。
源氏の世継ぎは「頼朝」に託されました。

源頼朝の正室と側室と子供は何人?

「源頼朝」
の正室は「北条政子」です。
側室は
1:亀の前
2:大進局
3:利根局
4:最初の妻:八重姫

ですね。
しかし、よくわからない部分もありそうです・
子は「四男二女」です。
以下紹介します。

源頼朝の正室は北条政子!子供の名前とその後!

正室は気性激しいと評判の
「北条政子」
恋愛結婚です。
子は二男二女。

1:頼家:長男:鎌倉二代将軍:修善寺に流され暗殺:享年23歳
2:実朝:次男:鎌倉3代将軍:頼家の次男「公暁」により暗殺
3:大妃:長女:源義高と婚姻も結婚せずに20歳で他界
4:三幡:次女:病で14歳で死去

どうも、子供たちは悲劇ですね。

源頼朝の側室と子供の名前とその後!

源頼朝には側室が、最初の妻を含めて4人いました。
それぞれを紹介します。

1:八重姫:最初の妻:頼朝の監視役の伊東祐親の三女
頼朝との仲を平氏に漏れるのを、危惧し父、伊東祐親により江間の小四郎に嫁がせたとあります。

子:千鶴御前:伊東祐親により不遇の最後

2:亀の前:良橋太郎入道の娘
もしかして頼朝が最も愛した女性かも。
「政子」の嫉妬を一身に受けた女性。
とてもかわいそうです。
最後はどうなったか不明。

3:大進の局:鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘:のちに出家して禅尼

子:貞暁:次男:出家:46歳で病死

4:利根局:波多野経家の三女

子:大友能直:頼朝の大のお気に入り:大友氏の興隆の因

これは諸説あるようです。
しかし大友氏の系図では「大友能直」を、頼朝の庶子と記載されています。
利根局は近藤能成(近藤太能成)の妻。
一説には、頼朝の子???
疑わしきは、載せておきましたが、これはロマンという事で。
・・・・・・・・・・・

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源頼朝のしたこと!征夷大将軍までの道のり!

 

鶴岡八幡宮の写真
(2020年1月管理人撮影)

以下解説します。

誕生:久安3年4月8日(1147年5月9日)
没年:建久10年1月13日(1199年2月9日):53歳(満51歳)

平治元年(1159年):13歳:右兵衛権佐へ任ぜられる
平治の乱;父義朝の大敗で、東国へ
永暦元年(1160年)2月9日、頼朝は近江国で捕えられ六波羅へ
みな極刑と思いきや清盛の継母の「池禅尼」の助言で、助命嘆願なる。
同年3月11日:伊豆国へと流刑:蛭ヶ小島(ひるがこじま)かと。
治承4年(1180年):以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発布
治承4年(1180年)8月17日:伊豆国目代・山木兼隆を打ち取る
治承4年(1180年)8月23日:石橋山の戦いで敗走
治承4年(1180年)10月6日:父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ
同年10月20日:富士川の戦いで勝利:のちに異母弟の「義経」が参陣
治承4年(1180年):各地で各地の源氏、平氏が挙兵して大混乱状態
養和元年(1181年)閏2月4日:平清盛がこの世を去る
養和元年(1181年)7月頃:後白河法皇に平家と和睦の書状も平家が拒否
養和元年(1181年)8月:嫡男の源頼家誕生
寿永2年(1183年)2月:野木宮合戦に勝利し坂東を制覇する
御家人の所領の保証、敵方の没収所領の給付を行い、「本領安堵」「新恩給付を行い、坂東節の支持を集める。
寿永3年(1184年)1月20日:源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲を粟津の戦いで討つ
3月27日:除目で正四位下へ叙位
元暦元年(1184年)2月7日:摂津国一ノ谷の戦いで勝利
文治元年(1185年)1月19日:屋島の戦いで勝利
3月24日:壇ノ浦の戦いに勝利:平家の滅亡
文治元年(1185年)4月:梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く
文治3年(1187年)10月:藤原秀衡が没
文治4年(1188年)2月:義経の奥州潜伏が判明
文治5年(1189年)閏4月30日:泰衡は衣川館に住む義経を襲撃し、義経は自害
7月19日:1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討
逃亡の泰衡を追い北上。9月3日泰衡討たれる。
奥州合戦の終了。
文治5年(1189年)11月3日朝廷より按察使への任官を打診されるが辞退。
建久元年(1190年)10月3日:鎌倉を立ち上洛11月7日入京
建久3年(1192年)7月12日:征夷大将軍に任じられる。

ここまでが主な、年表です。
詳しく書けば、もっとあるのですが、この程度で。

・・・・・・・
北条義時と、鎌倉北条氏の家系図!
執権職とは?

北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!

清和源氏の系統図です。

清和源氏とは?家系図から見る祖と嫡流や河内源氏と鎌倉幕府の改革!

いろんな分かれがあるんですね~~
驚きました。
・・・・・・・・・・・

 

征夷大将軍任官後の鎌倉幕府のしたこと!本格的な武士の世!

 

鶴岡八幡宮の写真
(2020年1月管理人撮影)

「征夷大将軍」
についた、「源頼朝」は直ちに、鎌倉幕府を開府。
どんどん、新しい制度を立案していきます。
ここに、初めての武士による、秩序ある日本国の支配が、はじまったんだと思う。

主な功績は以下。

  • 1:朝廷から政治の実権を奪う
    2:各国に一人守護を置く(治安維持)
    3:各国に一人地頭を置く(年貢の取り立て)
    4:御家人統制の「侍所」設置
    5:政務と財政事務の「政所」設置
    6:裁判事務担当「問注所」設置
    7:封建制度を確立:所領安堵、御恩と奉公
    8:源氏宗家を名乗り源氏を淘汰する:数多い源氏を整理した。

そのほかに、自分が全てやらなければ・・そんな独裁者ではなかったようです。
部下を信頼して、戦も部下に任せて、勝ってきました。
源氏の宝剣は「髭切」というらしい。
今どうなってるのかな~~諸説あるようです。

守護と地頭配置は画期的だった!

「源頼朝」
の行った、鎌倉幕府の開府で、最も大きかったのがこの
「守護・地頭」
だったような気がします。
これまでは朝廷が牛耳っていた、地方の任官権と、年貢を徴収する権限を得たのですから。

政の権限を、武士に移行することが、着々と進行していくんだな。
のちの「承久の乱」の勝敗によって、それは決定的になりますが、初代将軍の功績は、大きなものがあったと。

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源頼朝の家系図と鎌倉幕府の意義の感想とまとめ!

 

鶴岡八幡宮のイチョウの木写真
(2020年1月管理人撮影)

「源頼朝」
の行った、最大の功績はどちらとも言い難いですが

  • 1:平家の滅亡
    2:鎌倉幕府開府

この二つかと。
もし、「平清盛」が、平治の乱の時に「池禅尼」の助命を受け入れていなければ、世の中はどうなっていたかな~~など。
もしかしたら、「義経」になっていた?
さて?

「源頼朝」は恐ろしく、切れ味が鋭い方だったことは、間違いないようです。

部下には、任せることは任せるが、賞罰はかなり厳しい方に思います。
当時の勢力図から言って、源氏もかなりの方が名乗っていて、系譜から言えば、どっちもどっちの状況でしょうが、しかし源氏の嫡流と言えば
「八幡太郎義家」
からの系図が、本流ですね。
「髭切」
を持っていますから。

源氏の「宗家」を名乗り、傍流をまとめ上げた功績も、とても大きいと思います。

それから何気に「三権分立」らしい規則も。
この辺が、独裁者では政治は取れないことを、朝廷を見てわかっていたのかもしれません。

いずれ、ここを境に、武士が支配する世の中にい変わっていったことは、疑いのないことかと。
「徳川家康公」
も、江戸幕府開府に当たっては、「鎌倉幕府」を参考にしたとあるようです。

が・・なんで早く逝ってしまうかな~~
しかも、源氏の宗家が、いとも簡単に絶えてしまう。

人生ですな~~
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北条義時の、正室と側室と子供とその後。
その後の処遇は、ちょっと気にかかりました。

北条義時の正室と側室と子供の名前と何人いる?その後の処遇を解説!

伊達政宗の正室と側室と子供のその後。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

関ケ原での、100万石のお墨付きは水泡と化してしまいましたが、それでも東北の雄!

・・・・・・・
*ヘッダーの写真は、昨年の1月に鶴岡八幡宮に行った時の写真です。
記事内の数枚の写真も、その時の写真です。

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