戦国武将で最強人気は誰だ?石高ランキングや増え方評価と子孫その後

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戦国時代の武将で人気と言えば、徳川家康公や伊達政宗公、織田信長や豊臣秀吉、上杉謙信公や武田信玄公など最強は?

  • ①:戦国時代の武将で最強は真田信繁。
    ②:戦国武将を集めた特集記事。
    ③:本ブログ内戦国武将の特集。
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Contents

「関が原の戦い」以前までの戦国武将のまとめ!

「関ヶ原の戦い」
以前までの戦国武将の石高や家系図など、子孫なども紹介していきます。
便宜上
「関ヶ原の戦い」
含まないことにします。

「上杉謙信公」は毘沙門天の化身!石高の推移と兵力動員数!

戦国の世において、数々の名勝負を繰り広げた「上杉謙信公」
宿敵というか、盟友というか「武田信玄」なくして「上杉謙信」もまた語れなかったかもしれません。
素晴らしい考え方です。

やはり国力は「石高」です。
兵の動員数も、この石高できましますからね~~

しかし、謙信公は「侵略」的な領地の拡大は、決してしませんでした。
「大義」
を重んじたからですね。

「武田信玄」は最強の騎馬軍団の甲斐の虎!石高推移と兵力動員数

「武田信玄公」
は無敵の「騎馬軍団」を要し
「赤備え」
で有名。
こくだかの推移や兵力動員数など解説しました。

関ヶ原を分水嶺とすれば
「武田氏」
無くては戦国は語れません。

「明智光秀」は本能寺の変の首謀者!石高推移と兵力動員数

「明智光秀」
がなぜ「本能寺の変」に至ったか?
謎です。
しかし、成功して何を思ったかな~~と。

「ときは今 雨が下る 五月哉」

「毛利元就」の祖は「大江広元」!石高推移と兵力動員数

「毛利元就」
の祖は
鎌倉時代に鎌倉殿と北条執権にまたがり活躍した官僚の
「大江広元」
です。
ピンチもありましたが鎌倉時代を生き抜きました。
「毛利元就」
はその末裔。
とはいってもその先はまだまだ・・ですが。

三本の矢の逸話が有名です。

「北条早雲」は後北条氏!家系図と北条氏康との関係など解説

「北条早雲」
は今川氏ととても関係が深いです。
今川氏から独立したようなものと認識しました。

北条氏康はその孫にあたります。

浪人から身を起こして
「戦国大名」
にのし上がったとして
「武勇伝」
の代表格に言われます。

「北条氏康」は「北条早雲」の孫!家系図と子孫その後解説

「北条氏康」
は「北条早雲」の孫にあたります。

「我六十四たびの戦で負けたことなし!」

と豪語します。
名将でした。

我が子「氏政」の汁の塩梅での
「名言」
がその通りになりました。

「今川義元」の家系図とその後!領地の変遷や桶狭間の戦い解説

「今川義元」
は当時関東の雄でした。
誰もかないません。
上洛の途中で
「桶狭間」
で散った英雄です。

徐々に分かったことですが、この時の
「織田信長公」
の作戦は素晴らしかったですね。

「今川氏真」の家系図と子孫その後!江戸時代は高家で仕える

「今川氏真」
は「義元公」の後を継ぎました。
武士には向いてなかった?
どうなんでしょうかね~~
しかし、家康公は見捨てませんでしたね。

今川氏の高家に至る過程なども解説しました。

戦国最強と言えば織田信長公!石高や戦力や武将などまとめ!

戦国最強として君臨。
優秀な部下も多数。
あっという間に、「天下布武」も目前。
「本能寺」
に散ってしまいました。
徐々に、ここは追加していきます。

織田信長公の正室と側室の名前と子は何人?その処遇などについて!

織田信長公には、正室は「濃姫」(帰蝶)ですが、側室は何人だったでしょうか?
そして子は何人?
そんな疑問に、答えようと調べてみました。

また、その後の子の人生はどうなった?
そんな考察もしてみました。
なかなか、父が偉大だっただけに、あとは厳しい人生の方が、多かったようです。

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武将徳川家康公の石高推移と子供や四天王の話題!


(wikipediaより引用)

名実ともに、日本の「将軍」だと思います。
文武両道に長けていた、稀代の英雄で全く異論はないと思います。
知略に優れていて、三河武士の結束も固く、この辺が勝利にかなり貢献したんだべな~~と、個人的には感じます。

徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で!幕府開始時は幾ら?

英雄としての「将軍」徳川家康公も、不遇の少年時代を過ごしましった。
今川家の人質時代から、辛酸をなめた過去があるから、逆境に強かったんだと思います。
石高の増え方は、すさまじいです。
出世は、おそらく一番早かったのではないかな~~って思った次第。

それと、子供たちを巧みに要所に配するあたりは、さすがと言わざるを得ませんね。
仕組みも完ぺきだったから、300年続いたんだと思います。

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

徳川家康の正室は「築山殿」ですね。
不遇の方でした。
豊臣秀吉の妹の方(朝日姫)とは、政略でほとんど意に介していなかったようです。
側室は、結構の方がいたのですが、子供も多かったですね~~
でも、しっかりとそれは仕組みを作ったんだな~~この配置と制度は、目を見張ります。

徳川御三家は、素晴らしい発想だと思います

徳川四天王とは?ランキング最強は誰?関ケ原以降石高推移と幕末!

徳川家康を支えたのは「徳川四天王」と言われた、将校ですね。
当初は、四天王でも雇われ将校。
石高はさほどではなく、兵を預ける形・・そんな形態のようでした。
しかしながら、この四天王は強かった!

この四天王の武将の、その後も含めて書いてみました。

井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!

私個人では、徳川四天王の筆頭は、どうしたって
「井伊直政」
ですね。
旧武田の家臣を再雇用して、そのまんま赤備えを組織した軍容は、なんといっても圧巻!
大坂夏の陣の、真田信繁も旧武田軍団を意識した、赤備えでした。

しかし、早いんだな~~逝くのが!
関ケ原の先鋒では、抜け駆けともいわれましたが、しかし
「これは我らが戦い!」
なんだな!

「酒井忠次」は徳川四天王の重臣!家系図と正室と子孫!

「酒井忠次」
は徳川四天王の一人
徳川家の重臣です。
しかし、四天王の中では少し石高は低かったですね。
なんで?

こちらで詳しく解説しました。

「本田忠勝」は徳川四天王の一人!家系図と正室と子孫!

「本田平八郎忠勝」
は徳川四天王の中でも最強の一人。
傷一つ負ったことがなかったといわれます。

豪胆な性格で敵からも恐れられていました。

上で詳しく功績など年表で解説しました。

「榊原康政」は徳川四天王の一人!家系図と正室と子孫!

「榊原康政」
は徳川四天王の一人。
できる方は早く亡くなるんだよね~~

勇猛果敢な方で徳川和幕府成立に貢献しました。

上のリンクで詳しく解説しました。
明治維新までのことも解説しました。

「石川数正」は家康公の家老!出奔理由や家系図と正室と子孫!

「石川和正」
は徳川家の重臣でした。
今川時代から使える重臣もまさかの
「出奔」

理由は?

諸説ありますが、本人にはそれなりの理由があったはず。
使える困難さはそれぞれ。

「鳥居元忠」は伏見城に散った英雄!家系図と正室と子孫!

「鳥居元忠」
は関ケ原の前哨戦の
「伏見城の戦い」
で散りました。
「家康公」
の信任が厚かった武将。

散るべくして伏見城に散った英雄です。

「大久保忠隣」は頑固一徹な武将!家系図と正室と子孫!

父「大久保忠世」
「徳川十六神将」(とくがわじゅうろくしんしょう)
に数えられます。
その子。
「家康公」
とは「大久保忠隣」がより長く接して老いるように感じます。

関が原以後・・江戸の始めには家督相続などでお家は
「波乱万丈」
でした。

「服部半蔵正成」は伊賀越えで信頼抜群だった!家系図と正室と子孫!

「服部半蔵正成」
は有名な伊賀の忍者。
しかし本人はれっきとした武将だったと。

忍者は父の服部半蔵まで。

代々が名前が
「服部半蔵」
を名乗ることになってるそうです。

「本多正信」は「家康公」の朋友と言える文官で知略の名軍師!

「本多正信」
なくして「徳川幕府」の根幹の設計はなかったかもしれません。
まさしく「知略」に長けた
「名軍師」
です

家紋が「丸に立ち葵」ですごいですね。
葵紋を許されるのはまさしく
「朋友」
です。

関ケ原の戦いで加増と減封のランキングを作成してみた!

関ケ原の戦いの、勝者と敗者での、石高の変化のランキングを作成してみました。
勝負は時の運とも言いますが、「関ケ原の戦い」では、権謀術数が渦巻き、その駆け引きは現代でも、十分に参考になると思います。

此方の本はおすすめです。
とても面白く読みました。

司馬遼太郎「関ケ原・中巻」はこちら!

司馬遼太郎の「関ケ原」です。
興味のある方には、とても参考になると思います。

「関が原の戦い」以降からの戦国武将のまとめ!

ここからは
「関ヶ原の戦い」
以降の武将の紹介です。

「真田信繁」の大坂夏の陣の活躍は戦国最終戦にふさわしい名勝負!

「真田信繁」
戦国を閉める武将ではこの方ほどふさわしい方はいないかと。

「道明寺の戦い」
と次の日の「茶臼山」の陣からの出撃と
「敵軍強行突破」
は語り草。
ついに家康公の
「馬印」
が倒される屈辱。

最強の武将は
「真田信繁」
に一票です!

「上杉景勝」は関ケ原の戦いを演出した武将!悲願ならず!

「上杉景勝」
は「関ヶ原の戦い」である意味
「主役」
でした。
「上杉景勝」
と石田三成がセットした戦いに見えます。
が・・歴史は思惑通りには動きませんでした。

「直江状」
は名文です。
ほとんど笑ったことがないという方なんですね~~

「石田三成」は関ケ原の戦いを演出した武将!散った英雄!

「石田三成」
は「関ヶ原の戦い」の首謀者。
どこでミスった?

やはり人望かな~~と。
人はとてもまじめで、悪い方ではないのですが、配慮が足りなかったように感じます。

大軍の将、あるいは武将を束ねる大将の器ではなかった?
そういうことなのかもしれません。

でも子孫は、つながっていきました。
徳川幕府の深部まで。
驚きました。

「家康公」
の懐は深い方だったんですね~~信長公や太閤殿下なら
「一族総粛正」
でしょうが、家康公はしませんでした。

「黒田長政」は関ケ原の戦いの功績で大幅加増!

「黒田長政」
は父「黒田官兵衛」と「関ヶ原の戦い」に参戦。
尤も、ちち「黒田官兵衛」は九州での活躍でしたが。

「関ヶ原の戦い」
で、多くの豊臣方の武将を、味方に引き寄せる功績を上げました。

父「黒田官兵衛」は
「関ヶ原の戦い」
が短期間で終わってしまったがっかりしたかもしれません

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伊達政宗公の石高推移と子供の数や処遇などのまとめ!


(wikipediaより引用)

伊達政宗公の石高の推移と、子供たちの処遇や戦でのエピソードなどをまとめてみました。
私は宮城県に住んでいるので、地元で大変に誇れる武将です。
ゆかりの地も多く、多くの観光地になっているので、仙台に来た折は是非寄ってみてください。

伊達政宗の関ケ原以前と以後の石高と兵力動員数は?生涯年表で表示!

伊達政宗公の、関ヶ原以前と、関ヶ原以後の石高の推移をまとめてみました。
生まれた時から、家督を相続し最高の石高に至るまでの、戦いの内容なども書いてみました。
「さんさ時雨」
の歌詞は、とても興味深い内容だと思います。

伊達政宗公と言う人は、とにかく血の気が多い方のように思います。
それと物怖じしない、度胸も相当なものかと思います。
これだけの石高の大名が、1戦交えるとなれば、やはり小事は無視するかもしれませんね

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

伊達政宗公の正妻は「愛姫」です。
側室も数人。
子供もたくさんいたのですが、それぞれに処遇されています。

やはり、一族で発展!
そんな思いを受けるんだな~~
要衝に配しています。

戦国時代の武将ごとの石高ランキングや兵力動員数や陣形などの話題!

戦国時代の話題です。
あまたの武将がいますが、それぞれに特徴がありますし、ひとくくりにはできないのですが、大きなテーマの話題です。
この時代は、日本の歴史の中で、一番不安定でしたが、でも一番英雄を輩出した時代ではないでしょうか?

そんなことを前提に、話題を追っていきます。

戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!

これはやはり、誰でもランキングというのは大好きなんだな!
私はすぐに、これが頭の中に浮かびました。
関ケ原以前と、関ケ原以後について、比較してみました。

ついでに、兵力の動員数についても、考察してみました。
一般的には1万石で「250人」と言われています。

石高で1石は江戸時代で現在の価値ではいくら?武士の年収も調査?

この時代は、お金の基準はお米の価格で決まっていたようですね。
1石は60㎏の米俵で「2.5俵」です。
現在の紙袋は30㎏なので、それが5本です。

ではお金に換算したらナンボ?
ついでに、武士の年収も。

戦国時代の合戦の陣形は?主要陣形一覧と武田八陣形を考案は誰だ?

孫子の兵法ではないですが、戦では陣形は重要事項。
川中島での陣は
武田信玄:鶴翼の陣
上杉謙信:車掛かりの陣
でした。

三方ヶ原では
徳川家康:鶴翼の陣
武田信玄:魚鱗の陣

これは面白いですね。

武田八陣形が、どうやらそれぞれもとになっていたような‥そんな気がします。

戦国武将の人気に思うこと!人気が最強ではない!

日本の戦国時代という定義は以下のようです。

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。
(wikipediaより引用)

さらに

応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する
(wikipediaより引用)

という内容です。
確かに。
中国の春秋時代と言えば、紀元前400年前後の時代。
孔子や、孫子の時代です。

その時代でも、多くの英雄が生まれています。

青葉城址公園の伊達政宗像
(管理人撮影仙台城址公園の伊達政宗像)

日本の戦国時代の英雄は誰だ?

私が勝手に思うのは、地元ですからやはり
「伊達政宗公」
に一票ですね。
覚悟が違います。

大坂夏の陣では、まさにそれを感じます。

1:真田信繁の追撃を断った
2:味方を殲滅(多分わざとですね)
3:真田信繁の子を片倉小十郎が引き取る
さらに時間をさかのぼって
4:関ケ原の100万石のお墨付きがあっても北に進路を取った。

4は、関ケ原での逆心扱いされても、今俺と戦なんざ~~できるわけねえべ~ですね。
それに、上杉はまさに背水の陣だ・・今まともに戦いたくないし、その時期でもない・・そんな思惑に見えます(個人的に)

百戦錬磨で、空気を読むのに長けていたように思います。
もし、信長と同じ時代なら、もしかしたらガチンコ勝負が見れたかもしれません。

タラレバですね‥でもロマンだな~~って思うんだな。

内容は、都度追加していきます。

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