武田信玄の石高の推移年表と兵力動員数!家系図(系図)と子孫その後!

神社の灯篭の写真
武田信玄の、家督相続後の<strong>石高</strong>から始まり、最高潮の三方ヶ原時点までの、<strong>石高の推移</strong>と支配地域を解説。

  • ・甲斐武田氏の系図
    ・武田信玄の正室と側室このその後。
    ・武田信玄の最高兵力動員数
    ・赤備えと騎馬軍団の由来。
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「風林火山」は孫子の兵法に由来!

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甲斐武田氏の系図と武田信玄の家系図!

ここでは

  • ➀:武田氏の祖と甲斐武田氏の系図
    ➁:武田信玄の家系図

を解説します。

甲斐武田氏の系図!甲斐源氏の所以・祖は源義光!

甲斐武田氏の祖は八幡太郎義家(源義家)の弟の
「新羅三郎義光」(源義光)
を祖にしています。
しかし、武田姓を名乗ったは、その4代目に当たる
「武田信義」
です。
ここを初代に数えるか、「源義光」を初代に数えるかで、変わるのですが、どちらもあるようですね。

以下に系図を、いろんな情報をもとに、私個人で作成してみました。

源氏の系図

この系図の、左の部分が、武田氏の系図です。
それを詳しくしたのがこちら。

甲斐武田氏代々の系図

最後は18代「武田信勝」で終わるのですが、この後は諸説あるようです。
ロマンがあって、とてもいいと思います。

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武田信虎の家系図!武田信玄の兄弟は沢山!

武田信玄の兄弟は、沢山。
何せ父の

「武田信虎」

は子だくさんでした。
家系図を作ってみました。

武田信虎の家系図

実に、正室、側室併せて6人。
子はなんと~~
「13男9女」
です。
武田晴信(信玄)は二男ですが、長男の「竹松」が夭逝したので、嫡男に。

武田信玄の正室側室と子の名前とその後!

以下は、武田信玄の家系図です。

武田信玄の家系図

子は、7男5女です。
養子が一人。

嫡男は「義信」。
然し、今川をめぐる路線対立で廃嫡。
家督を

「勝頼」

に継承しました。
しかし、最後は天目山で、名門「甲斐武田氏」も滅亡しました。
上杉景勝の夫人の
「菊姫」
は、信玄公の娘。

上杉氏にも、名門の血縁があるんですね~~

*記事中の家系図は、ネットの情報やwikipediaの情報を整理し、私が作成しました。
もれてる部分や誤記があるかもしれませんがそれなりに。

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武田信玄の石高の推移の年表を支配地ごとに整理!

武田晴信公画像
(wikipediaより引用)

武田信玄の、石高ってどん位でしょうか?
又、全盛期はおそらくですが
「三方ヶ原」
での徳川家康との決戦時点かと思います。
その時点では何万石か?
最初とその時点は、おおむね情報としてはあるようですが、そこまでの経緯ですよね~~

私なりにまとめてみたのですが、多少疑問があっても容赦ください。

武田信玄(晴信)家督相続時点では何万石だ?

正常な相続ではなく父「信虎」の追放で、強制的な相続でした。

まずは時代背景です。

豊臣秀吉の天下統一:1590年
関ケ原の戦い:1600年

ここを基準に、以前ですが念頭に入れておくと、その時代が予想できて便利かと。

  • 1522年:誕生名前は:太郎または勝千代
    1533年:13歳で上杉朝興の娘を正室に迎えるも翌年死去
    1536年:元服し「晴信」三条公頼の娘を正室に迎える。
    1541年:父信虎を駿河に追放

と、こっからですね。
正式の甲斐の守護職として、大名の家督を相続したわけです。

この時の石高:甲斐一国:25万石
兵力動員数:6,250人
(1万石:250人で計算)

当時の石高では、変動はありますが、伊達輝宗(伊達政宗の父)が米沢:22万石です。
同じくらいですね。

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武田信玄家督相続後の石高はどう増えていった?

概ね以下のようです。

1542年:諏訪家所領制覇
1551年:北信地方除き信濃の国制服

この時点で:信濃国:55万石
甲斐の国併せて:80万石

1557年:37歳正式に信濃守護職に補任
1566年:箕輪城(みのわじょう:現在の群馬県高崎市)を落とし、上野国西部を領国化に成功。

この時点で上野国の一部:10万石前後追加。

1566年:合計で90万石

1568年駿河に侵攻し今川館を占拠
この時点で駿河国:15万石

1568年:105万石

1572年:美濃に侵入岩村城、二又城攻略
この時点で:美濃国の一部:10万石前後

1572年:115万石

1572年三河侵攻時に遠江国の一部攻略
この時点で:遠江国の一部:10万石前後

1572年:125万石

同年12月22日「三方ヶ原合戦」で徳川家康撃破。
この時点で:三河国の一部:5万石前後切り取り。

1572年:130万石

ここが最高かと思います。
なお、武田家としてはその後の「武田勝頼」が、もう少し伸ばしたのですが、一瞬でした。
3年後の1575年「長篠の戦」が、決定的でしたね。

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武田信玄公の支配地域と支配地の石高一覧!

「三方ヶ原」
時点での石高と、支配地域は以下のようです。

  • 甲斐国:約25万石
    信濃国:55万石
    駿河国:15万石
    上野国の一部:10万石前後
    美濃国の一部:10万石前後
    遠江国の一部:10万石前後
    三河国の一部:5万石前後

併せて130万石前後の石高かと思います。
130万石での兵力動員数は

「32,500人」

で、ほぼほぼ、三方ヶ原の動員数や、ほかの戦力からして、あってそうな気がします。

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武田騎馬軍団の実際!史実は全く違うかもしれない!

武田信玄公の銅像

戦国時代、無敵を誇った武田騎馬軍団
どんな軍団だったのでしょうか?
映画の中での川中島の合戦では、別動隊の騎馬軍団の疾走するシーンは、圧倒的で印象的でした。

実は本当は武田の騎馬軍団はかなりの部分が脚色された?

馬に乗った武田の騎馬軍団が、実は架空の存在だった?
そんな話が最近主流なんだそうな!

ホントかな?

その理由は以下のようです。

  • 1:当時の戦闘スタイルは下馬しての戦闘が一般的
    2:馬に乗っていたのは大将格のみ
    3:集団訓練の欠如で下までは統率が不可能だった
    4:馬で戦うほど熟練していなかった
    5:馬の部隊は多くても1割がせいぜいだったそうな・・

などなどの理由で、果たして武田の騎馬軍団はあったのか?
そんな噂です。
馬自体も、当時は在来種で時速は20km程度で、サラブレッドのような馬はなかったとのこと。

なるほど~~ですが、スカスだ・・我々歴史ファンは、あの映画のワンシーンの赤備えの騎馬軍団は、憧れなんだな。
映画影武者の「長篠の戦」や、騎馬軍団が駆け抜ける姿は圧巻・・それが・・
現実はかなり違うようです。

現実はそうであっても、イメージこわさんでホスイ!
そう願うのみ。

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武田の赤備えの起源はどこから来たか考察してみた!

赤の甲冑の写真

ところでなんで赤?

戦国時代では、この赤は特別な色だったようですね。
なんで?

  • 1:戦場で目立つ
    2:味方的の区別が用意
    3:実際の兵よりも多い錯覚
    4:情熱と興奮(兵士を鼓舞する効果)
    5:敵軍を威圧する効果満点

などなどですが、では、なんでみんな赤にしなかったの・・と思うのですが、やはりそこには赤という塗料は貴重で何せ高い!

なので、本来は特別な武将や一部の部隊のみが、身に着けた居たようです。

赤備えとはどんなものから作られた?

不透明な赤褐色の塊状の物質「辰砂(しんしゃ)」から作られる、赤の色は絶妙です。
この辰砂は別名
「賢者の石」
とも呼ばれるようですね。

で、戦国時代の赤備えで有名な武将は、いかにもあたようですが、やはり武田軍がもとになっていると思います。

・武田の赤備え:(武田信玄軍の騎馬部隊)
・真田の赤備え:(大阪夏の陣・真田信繁(幸村)の部隊)
・徳川の赤備え:(井伊直政による部隊で武田軍を継承)
・江戸幕府の赤備え:(将軍外出時の護衛旗本が着用した。武田の赤備えに習った様式)
・その他の赤備え:(北条氏の家臣や黒田官兵衛(如水)の配下にも朱色の甲冑を用いて戦った武将が多く存在するようです)

などなどですが、最初のもとは「武田信玄軍」です。

*大坂夏の陣での「真田信繁(幸村)」の思いは、祖父真田幸隆や父真田昌行への、武田信玄配下としての、プライドだったのかもしれません。
私はそう思いました。

山県昌景の写真
(wikipediaより引用)

武田軍赤備えの祖は飯富虎昌と山県昌景!

「飯富虎昌(おぶ とらまさ)」(1504~1565年)

武田軍の中で、最初に赤備えの部隊を組織したとして、知られる武将です。
多くの武功を上げた、名将です。
この場合の特徴は

  • 1:騎馬を中心とする
    2:各家の次男以下(相続できずあふれた存在の男子)
    3:主に先鋒

騎馬を中心とする、少数と書かれています。
どの程度の人数かはわかりませんが、赤で敵の注意を惹き、かく乱する目的で組織されたようですね。

構成は、次男以下なので、農作業従事せず、フリーの方が中心。
これは理にかなっているかと。

山県昌景(やまがた まさかげ)

飯富虎昌の弟になるようですが、諸説あるようです。
いずれ、1565年に飯富虎昌が謀反の疑いで、自害した後は、その部隊を引き継ぎます。

その後の、この山県隊は武田軍の中でも最強と言われました。
赤備え隊の完成度は、ここに極まったわけです。
戦では、この山県隊を見ると、敵軍はうろたえた・・かもしれませんね。
連戦連勝でしたから。

が・・山県昌景は長篠の戦いで、悲しくも非業の最後。
その後、武田の赤備えは
「井伊直政」
の「井伊の赤備え」へと、引き継がれていきます。

井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!

徳川家康公は、戦場での「井伊の赤備え」の、甲冑の赤の色が古いものを見て、武田信玄公に思いをはせたという記述を見ましたが、確かに感無量というところかと。
新品の赤の甲冑の中にあって、いかにも古臭い昔の甲冑の兵士を見て、そう思ったそうな。

三方ヶ原では、いいようにやられたわけですからね~~

・・・・・・・
戦国時代の候高ランキングです。
関ケ原以前と以後に分けてみました。

戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!

戦国時代の陣形は?

戦国時代の合戦の陣形は?主要陣形一覧と武田八陣形を考案は誰だ?

実は、ここにも武田信玄の戦上手が隠れているんだな~~
・・・・・・・・・・

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風林火山は孫子兵法「孫子四如の旗」からの軍旗!

風林火山の旗指物の写真

「武田信玄」
と言えば旗指物は
「風林火山」
です。
記述は

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」

ですね。
意味は以下になります。

  • 疾如風:疾(はや)きこと風の如く
    徐如林:徐(しず)かなること林の如く
    侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く
    不動如山:動かざること山の如し

風林火山は孫子の兵法ではどう表現されているか?

実は、その下にも続きがあるんだな。
以下のようです。

  • 其疾如風:其の疾(はや)きこと風の如く、
    其徐如林:其の徐(しず)かなること林の如く、
    侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
    不動如山:動かざること山の如し、
    難知如陰:知り難きこと陰の如く、
    動如雷霆:動くこと雷霆(らいてい)の如し、
    掠郷分衆:郷を掠(かす)めて衆を分かち、
    廓地分利:地を廓(ひろ)めて利を分かち、
    懸權而動:権を懸けて動く。

上の風林火山からほかに、5行あります。
武田信玄の戦略のモットーは以下であると言われます。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

「武田節」の歌詞にもなっています。
これは、孫子の兵法の序章の

「兵は詭道なり」

よって、
「外交によって戦争を回避すべき」

という基本を、表しているんだな。
武田信玄は「外交」にもたけていましたから、この孫子の兵法が身に染みていたのかもしれません。(推測です)

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武田信玄の石高の推移のまとめやタラレバのお話と感想!

「武田信玄」
の石高の推移を、その増え方を年表形式で、表現してみました。
最終的な、勢力圏から逆算して、支配地域を手に入れた年代を当て込んで、石高の推移にしてみました。

最高はの石高は、推定ですが1572年三方ヶ原合戦時点の直後あたりでの

「130万石」(推定)

が、推定ですが支配地域から、算出されます。
それでの兵力動員数は(1万石で250人)

「32,500人」

ですが、ほぼこれは当たってそうです。
石高も、推定ながら的を得ていると思います。

家督相続が1541年ですから、ほぼ30年余りで最強軍団を作ったわけです。

武田信玄の城のイメージ写真

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武田信玄のタラレバのお話!

武田信玄公は、健康状態がすぐれなかったようですね。
結核性の持病があったとか。
人間、やはり基本、体が健康でないと、大業は為せないのは、現代でも同じことで、私たち個人でも健康でないと、いい人生は送れません。

徳川家康公は、その点では健康で長生きしましたね~~
精神的に、戦国武将の中では、一番冷静で穏やかだったのではないかな~~と思います。

怒りっぽい方は、やはりストレス貯めますから、いけないにかも。

が・・

武田信玄公が、豊臣秀吉の時代と同じ、あと20~30年ほど後の人だったら??
これは、伊達政宗公や上杉謙信公にも言えますが、名将が乱立した時代なら、どうなっていたかな~~って思うんだな。

さて??

歴史にタラレバの推察はつきものですが、現実はないのですが・・スカスだ・・こういう思い(空想)というのは、歴史好きには楽しいものです。

皆さんは如何思いますか~~~??
・・・・・・・・・・・・・・・
伊達政宗公の子供の人数と、その後の殊遇などについてまとめてみました。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

伊達政宗公の関ケ原以前と、以後の石高の推移を紹介しました。

伊達政宗の関ケ原以前と以後の石高と兵力動員数は?生涯年表で表示!

年表によりますが、支配地域確保で石高算出してみました。

*多分に私の希望的観測や、歴史上の戦での勝利による逆算で、石高を出していますが、多少の差異は容赦ください。
凡そという事で、見ていただければ嬉しいです。
ヘッダーの写真は、私が撮影した近所の神社の灯篭の写真です。

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