井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!

厳美渓の桜の写真

井伊直政は「井伊の赤備え」で知られ、徳川四天王、徳川三傑で知られる勇猛果敢な武将で有名です。
関ケ原の戦いでは、娘婿の松平忠吉と抜け駆け先鋒で、徳川家康公の面目躍如!

ゆかりの地や、家康公との関係など(遠戚だった?)考察してみます。
関ケ原のエピソードは、とても勇猛果敢で、こうありたいの見本に感じました。

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井伊直政の誕生などのプロフィールは?

 

徳川四天王の写真
(wikipediaより引用)

井伊直政の、誕生年や親の情報など、公開のプロフフィールは以下のようです。

井伊 直政(いい なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。 上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。

生誕 永禄4年2月19日(1561年3月4日)
死没 慶長7年2月1日(1602年3月24日)
改名 井伊虎松 → 松下虎松 → 井伊万千代(幼名) → 直政
別名 井伊の赤鬼、人斬り兵部(渾名)[注釈 1]
戒名 祥壽院殿清凉泰安大居士
父母 父:井伊直親、母:ひよ(奥山朝利娘)
(wikipediaより引用)

井伊直政は、上記のように1561年に誕生、
父親は、井伊直親で19代当主(?)といいますから、えらく古い家柄なんですね。
代々が、今川の家臣(家来)の家柄です。

NHK大河の「女城主直虎」の、井伊直虎は養母になるようですね。
祖父の井伊直盛は、桶狭間で非業の最後。

いったんは、井伊家は今川方の調略で滅亡。
しかし、井伊直政は三河の国「鳳来寺」に預けられ出家して幼少期を過ごしたとあります。

そして、徳川家康との出会いが、井伊直政の人生の、一大転機だったのは言うまでもないことですね。
人間って、人と人の出会いって、衝撃的な人生の転機だったり、その出会いが世の中を変えた!

そんなことが当たるように私は感じます。
井伊直政と、徳川家康との出会いも、そうだったんだと思いますよ~~

 

徳川家康公との出会いはどんな形で?

 

さて、徳川家康公との出会いはどうだったんでしょうか?

時は、天正3年(1575年)直政14歳の時です。

一説には

  • 1:鷹狩に来ていた家康公に名乗り出た。
    2:井伊直虎の働きかけ
    3:家康公が城下で見出した

こんな説があるようですが、いずれ出会いは鮮烈だったんでしょう。
即「300石」で召し抱えになったようです。

父の直親が、徳川方との内通を疑われて非業の死を。
その息子が「直政」ですから、そのことも気にかかったかもしれませんね。

苦労人の徳川家康公は、同じく苦労人の「直政」に対して、自分の境遇とオーバーラップしたかもしれません。
その時まで、直政は「虎松」と名乗っていましたが、家康公より

「万千代」

という名前を、賜り以後、「井伊万千代」と名乗りました。
余談ですが、これは確か大河ドラマの「女城主井伊直虎」のシーンにも出てきたのですが、どうやら菅田将暉さん演じる「井伊直政」は絶世の美男!

禁断の仲だった?

しかしながら、当時の武将の嗜みとして、さほど珍しいことではなかったようですね。
それはいいとして・・直政は、この家康公の部下として、素晴らしい働きをしていきます。

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井伊の赤備えの誕生!

 

天正10年(1582年)長年の宿敵の「武田家」が滅亡。
この時、「井伊直政」21歳の時ですね。

武田といえば騎馬軍団で、しかも部隊を色分けしていたようで、中でも赤武者の、「赤備え」は勇猛果敢で知られていました。
、敵は、その赤備えを見ただけで、震えが出たとも。

それを指揮していたのが「山県昌景」とその部隊です。
武田家で、赤備えを最初に率いたのは「飯富虎昌」という武将で、そののちに「山県昌景」が率いました。
しかしながら、「山県昌景」は長篠の戦で、非業の最期を迎えました。(47歳)

その武田軍団最強の「赤備え」を、井伊直正23歳の時に、引き継ぐことに。(この時直政に改名)
当初、武田氏の旧臣ら家臣団117人を付属させ、武田軍の赤備えを再編して「井伊の赤備え」が誕生します。

その際、徳川家臣の木俣守勝(1555~1610)を、補佐役に。
彦根藩の家老を務めましたが、この方素晴らしい教育を、直政にしたようです。
帝王学というか、人の掌握術から、大将としてのふるまいまで、余念がなかったようです。

天正12年(1584年)待望の、井伊の赤備え軍団のお披露目は、小牧長久手の戦いでした。
この戦いでの、井伊直政の兜に角のような脇立てがあったことから

「井伊の赤鬼」

と言われたと。

 

井伊の赤備えの合戦例での功績!

 

数々の武功を挙げていますが・・

  • 1:小牧長久手の戦い
    2:小田原城攻め
    3:関ケ原の戦い

井伊直政が、参戦して大きな武功があった戦は、上の三つが代表的かと思います。
もっとも、当時は戦に明け暮れるという表現が、ぴったしな時代。
奮戦の活躍だったと思います。
が・・その中でも、上の三つの合戦は決定的なものだと思います。

 

井伊直政は赤備えでどう変わっていったか?

 

井伊直政の、それまでの戦のスタイルは、「突き掛かり先鋒」というもので、敵陣に対して真正面から切り込んでいく・・なので、生傷が絶えなかった・・そういわれています。
方や、徳川四天王の「本田忠勝」は、何度出陣しても傷一つ追わなくて有名だったそうな。

この差・・

これを、家老の徳川家から派遣の木俣守勝や、武田旧臣からかなり諫められたようですね。
井伊直政隊の、戦時の大将しての指揮は、木俣氏が務めていたようです。
切り込み隊長には、やはり作戦は難しかったのかもしれません。
しかしながら、作戦の遂行能力が抜群であったればこそかと。

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関ケ原での抜け駆け先鋒の実際はどうだった?家康公も了解済み?

 

関ヶ原の戦は慶長3年(1600年)の時。
ここでも魅せてくれます。

関ケ原の先鋒は事前に「福島正則」で決まっていました。
朝から小雨・・しかし朝8時には小雨が霧になって、見通しがだんだんによくなっていく時間帯。

井伊直政は、娘婿の家康公の四男「松平忠吉」と、精鋭30騎を率いて陣を離れる。
戦場での決まりごとは、誰が先陣を切るか?
誰がこの合戦の火ぶたを切るのか?
これは、いつの時代でもそうだと思うのですが、重要なことで武将の誉れ

福島正則は、もともとは加藤清正と並んで、豊臣恩顧の代表格。
それが先鋒では、徳川の名折れ・・と思ったのかもしれません。

その赤備えの騎馬隊が、福島正則隊の前に出て、一発の銃声を轟かせ、合戦の火ぶたが切られたんだな。

「これは我らの戦である!」

いわば、徳川の威信というかプライドなんだろうと思います。
そのまま、西軍の中に入り戦を開始・・

しかしながら、武に優れていた井伊直政でしたが、外交や調略でも群を抜いて、家康公の信頼を得ていたようです。

 

関ケ原抜け駆け先陣のエピソード!

 

本来、約束事を破ったのですから、福島正紀は激怒したかもしれませんね。
しかし、お咎めはなし!

なんで?

  • 1:戦に勝ったのだからお咎めはなし
    2:本来、戦とはそのようなもの
    3:徳川の面目躍如したので大目に見た
    4:最初から主君家康公と合議の上での結果

さて・・どうでしょうか?
何が起こるかわからないのが戦場。
戦は結果論で、勝てば官軍ならば、結果由でオーケーなのかもしれませんが、さてどうでしょうか?
この辺は、ロマンにしておきたいと思います・・私の中では
・・・・・・・・・・・・
徳川四天王とは?
さらに関ケ原以降の処遇と、お家(藩)が幕末まで続いたかの考察です。

徳川四天王とは?ランキング最強は誰?関ケ原以降石高推移と幕末!

徳川家康公の子供は何人いた?

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

その子供たちの処遇は?
・・・・・・・・・・

井伊直政の外交手腕には定評があった!筆頭家老も納得!

 

外交手腕にも定評があり、徳川家康公より格段の信頼があったようです。
功績として、大きいものには

1:北条氏(小田原)との非戦交渉

武田氏滅亡の後の、旧領の扱いについて、侵略しない約束を取り付けた。
この時、本能寺の変の後で豊臣秀吉とは一触即発‥とても北条氏と争ってる場合ではない。

3:関ケ原合戦時の黒田長政との交渉で旧豊臣恩顧の武将の取り込み

黒田長政、細川忠興、福島正紀、加藤清正などなど・・徳川方への引き込みに成功。
この窓口は「井伊直政」だった。

4:関ケ原の各武将の処遇

関ケ原後の、各武将の処遇には困難を極めたようですが、これを滞りなく処理した。

などなど・・事務能力やそれを処理する能力は、抜きんでていたようです。
その功績で、石田三成の居城の佐和山18万石。
彦根城完成ののちには、彦根藩30万石に加増!(この時には息子の時代)

しかし、関ケ原での鉄砲傷がもとで、1602年に亡くなります。
享年42歳でした。
若かったな~~

優秀な人ほど、早くなくなるんだよな~~なんでだろ??
タラレバの話ですが、長生きしていればのちに筆頭の「本田正信」氏の出る幕はなかったと思いますが・・さて??

 

井伊直政のゆかりの地は?

 

井伊直政のゆかりの地はたくさんあります。
中でも、やはり出身地の「井伊谷」(現浜松市引佐町)は、無条件ですね。

1:出身地の「井伊谷」(現浜松市引佐町)井伊谷城跡

所在地:静岡県 浜松市 北区引佐町井伊谷字城山(城山公園)

2:龍潭寺

井伊直虎が出家した寺
所在地:静岡県 浜松市 北区引佐町井伊谷1989

3:浜松城

いわずと知れた徳川家康公の居城だったところ。

4:彦根城

井伊家の居城です。

5:長松院

井伊直政の墓所になります。
ここは、井伊直政が荼毘に付された場所。

などなど・・他にも書ききれません。

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井伊の赤備えに見る象徴が自分にもあるか?無いな!

 

「井伊直政」
は、「徳川四天王」「徳川三傑」にも数えられる、徳川家を代表する、英傑です。
特に「井伊の赤備え」は有名で

「井伊の赤鬼」

とも呼ばれて、徳川家中では最強でした。
それもそのはず、武田信玄公の遺産ですから、弱いはずはないですね。

赤の鎧兜は圧巻かと。

この赤備えですが、武田信玄ゆかりの武将「真田氏」にも引き継がれていきます。
大坂夏の陣での、「真田信繁」がつとに有名かと。

 

井伊直政が幸運だったことは?

 

素人感覚ですが、今の時代でもよいリーダーほど、素晴らしいブレーンに囲まれているような気がします。
徳川家康公に、徳川四天王と、井伊直政には家老の「木俣守勝」や、武田旧臣団がついていたこと。
また、それを聞き入れる能力があった、井伊直政の才能は素晴らしかったんだべな~~

主君に、恵まれたことも大きいとは思うのですが、それを見出した「徳川家康公」も、やはり天下人ですね。
部下に対する信頼の在り方は、見本になるような気がします。

 

井伊直政に見るリーダーシップの在り方とは?

 

私も含めてですが、歴史好きの方は、多分こういった歴史上の人物から、自分の有り様だとか場面の判断だとかを、学んでいくんだと思います。
歴史が大好きな方には、現にそういうことがあると思うんだな。

井伊直政と言う方は、敵陣に単身で突撃していく、切り込み隊長も兼務していたわけです。
半面、自分にも部下には規律が厳しく、理想型を求めたようですね。
それは、徳川の譜代ではない、外様と言う立場がそうさせたのかもしれません。

しかしながら、現代ではやはり、物事はチームで動く場合は多いかと。
戦国の、群雄割拠の時代ならそれが、当てはまってよかったかもしれませんが、現代ではちょっと難しいかもしれません。

常に自分が先頭に立ち、部下と対立していては、なかなか難しいこともあるかもしれないな~~と。
そういうことを、ちょっと感じた気がします。

しかしながら戦場では、井伊の赤鬼はやはりロマンを感じます!
・・・・・・・・・・・・
戦国時代の合戦の陣形についての考察です。
武田信玄公は、やはり強い理由があったんだな。

戦国時代の合戦の陣形は?主要陣形一覧と武田八陣形を考案は誰だ?

徳川家康公の出世の推移ですね。

徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で!幕府開始時は幾ら?

すごい勢いで、勢力範囲(石高)が増えていっています。
・・・・・・・・・・・・
※多分に私の主観を入れて書いてありますので多少??な部分があっても、ご容赦ください。
ヘッダーの写真は私が撮影した

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