徳川家康の石高の増え方の推移を歴史の年表で!幕府開始時は何万石?
徳川家康公の、石高(資産)の増え方の推移を年表で解説!
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「徳川家康公」の石高は急カーブで増えていきました!
Contents
徳川家康公の石高の推移を年表で!関ケ原以前と以後!
(wikipediaより引用)
概ね以下のような石高の推移。
岡崎城主:1560年頃 | 5万石 |
三河一国:1564年頃 | 29万石 |
遠江加算:1568年頃 | 55万石 |
駿河加算:1582年 | 70万石 |
甲斐、信濃半分加算:1882年頃 | 132万石 |
関ケ原以前:1590年 | 250万石:伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総国+下野・常陸国の一部) |
関ケ原以後:1600年 | 400万石 |
年表で見ると、その増え方が一目でわかります。
対して年数でもないのに、支配地がどんどん増えていきます。
勢いに乗ったんですね。
以下詳細に見ていきます。
徳川家康公の出身地三河の国!岡崎時代の石高は?
「徳川家康」公
は、元は「松平」の姓。
- 祖父:松平清康
父:松平広忠
母は、於大の方(伝通院)です。
しかし3歳で、家臣水野氏が織田方につく状況で、今川から疎まれて離縁で分かれ分かれに。
その父は、24歳で他界。
苦難の道ですね。
松平氏三河岡崎城主の当時の石高はなんぼ?
これが、はっきりわからないのですが、大体の推測といろんな資料から‥多分こんくらいということで。
- ➀:祖父松平清康公の時代
このころは、おそらく最盛期に
「30万石」
くらいは有していたような、印象です。
三河一石をほぼ統一。
が・・尾張侵攻で、「森山崩れ(守山崩れとも)」で、不慮の死、なんと25歳。
この時に7000余りの兵で侵攻とあるので、結構な石高と思います。
「30万石」
程度かという、推測です。
が・・祖父松平清康の死で、勢力は一挙に衰退。
- ➁:松平弘忠(父)の時代
父「松平広忠」は、今川の後ろ盾で、家督を相続。
せいぜい「5万石」程度かという、そんな推測です。
しかしながら、今川の支援なくしては、存続できないので、この5万石程度というのも、その地の石高であって、勢力圏であったかどうかは、疑わしいのかもしれません。
家臣団は、半分は帰農でなおかつ、お城には今川の代官様が、常駐していたようなので。
今川の人質以後数年後の三河岡崎城主時代の石高!
今川の人質になって
「竹千代」
と名のっていたのですが、今川義元が「桶狭間」で、破れたのを機会に今川から独立して
「岡崎城主」
で復活。
この時点で、今川から独立したので、常識的にに考えて
「5万石」(1560年頃)
かと。
それから破竹の勢いで、三河の国を統一。
途中、三河一向一揆が発生して、それを鎮圧したのが大きく、三河一国を平定し、一国の大名の仲間入りを果たすわけです。
この時点で
「29万石」(1564年頃)
です。
徳川に改宗した後の織田連合軍での石高推移は?
ここからは、徳川家康公の本領発揮!
松平家は、遠祖は新田源氏流得川氏なんだそうな。(諸説あり)
そこで「得川」を「徳川」として改めたんだな。
しかし「得川」は、源氏の嫡流ながら、もう一つは藤原氏になった例が認められて、永禄9年12月29日、天皇よりの勅許で
「従五位下徳川三河守藤原家康」
と称します。
1568年、武田信玄と組んで、今川領に侵攻し遠江を分割所領。
この時点で
- 三河の国、遠江二か国:「55万石」(1568年)
になります。
伊達62万石に近づきました。
1570年居城を浜松城に移転。
長篠の合戦で、武田氏が衰退して、そののち滅亡。
織田信長より、駿河の国を戴く。(論功行賞)
- 三河の国、遠江、駿河の国 三か国:「70万石」(1582年)
この時点で、伊達62万石は抜かれました。
同じ、この年に「本能寺の変」が発生。
どさくさに紛れて・・いえいえ・計画的にでしょうが、甲州と信濃に出兵し掌握。
この時には、北条氏政と同盟を結ぶ。
- 三河の国、遠江、駿河の国、甲斐、信濃(半分) 五か国:「132万石」(1582年)
あんりゃ~~100万石超えた!
この後が難解な、豊臣政権下となっていきます。
豊臣政権下での石高の推移は?
豊臣政権下では、一時期「小牧長久手の戦い」で、対峙するも結局同盟というか、軍門に下る。
1590年(天正18年)3月に小田原城を包囲して、北条氏は滅亡。
その論功行賞で、徳川家康公には、北条領を含めた「関東一円」を戴くことに。
関東一円とはどこからどこの範囲を言う?
関東一円とは以下!
伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総国+下野・常陸国の一部
となっています。
これで石高は
「250万石」
まで一気に加増。
なお、この250万石には、諸説あって、下野・下総・常陸国の与力大名を含め、また次男の結城秀康の10万石を足した総量というのが、定説のようです。
いずれにしても、関ケ原前の段階までは、この
「250万石」
が、徳川家康公の所領の石高。
私の記事の
戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は?石高に見る兵動員数!
では、「255万石」と表示ましたが、豊臣政権下でも、多少の変動があったり、解釈の相違が多少あったのかもしれません。
この辺は、流動的な部分もあるようなので、それなりに‥
関ケ原以後の徳川家康の石高は?最大石高はなんぼだ?
さて、関ケ原での圧勝で、徳川家康公は
「征夷大将軍」
に任ぜられます。
そこで江戸幕府を開府。
名実ともに天下人になったわけです。
して、その石高はなんぼになった?
天下分け目の乾坤一擲の関ヶ原の戦い!勝利後の石高はなんぼ?
関ケ原の戦いの後の徳川家康の所領地は
「400万石」
に加増しました。
これを幕府直轄の「天領」ともいったようですが、そのいい方は明治になってからのようです。
いずれ400万石を有すると。
そのほかに
長崎、大坂など重要な都市や、佐渡金山などの鉱山、湯の花から明礬を生産していた明礬温泉も天領とされた。佐渡、甲斐、飛騨、隠岐は一国まるごと天領となった。
(wikipediaより引用)
江戸幕府の、懐具合については、また別なお話です。
徳川家康公の、石高の変遷についてのお話なので、最終的には400万石プラスアルファーが付いたということで、結論いたします。
徳川家康公の石高の年表での推移と出世街道の一覧!
上で、書いた年表を一覧にしてみました。
祖父の代
松平清康:29万石
父
松平広忠:5万石(ただし、今川の代官常駐のため個別統治は怪しい)
それ以後
徳川家康公の石高推移の年表!
以下のようです。
1560年頃 | 「5万石」:岡崎城主 |
1564年頃 | 「29万石」::三河の平定により三河一国 |
1568年 | 「55万石」:三河の国、遠江二か国 |
1582年 | 「70万石」:三河の国、遠江、駿河の国 三か国 |
1582年 | 「132万石」:三河の国、遠江、駿河の国、甲斐、信濃(半分) 五か国 |
1590年 | 「250万石」:伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総国+下野・常陸国の一部) |
1600年 | 「400万石」:関ケ原以後 |
という、年表になるようですね。
但し、上の石高は徳川宗家と、家臣団も含めての石高になります。
例えば、関東一円に国替えの際の「250万石」(255万石かも・・)のうち、徳川家康の直轄は「100万石」で、残りの150万石は家臣団になります。
- 例えば
井伊直正:12万石
榊原康政:10万石
本田忠勝:10万石
結城秀康:10万石
大久保忠世:5万石
鳥居元忠:4万石
などなどの例です。(多い方のみ・・)
多い順番に書いてみました。
これは関東に、国替えで大幅増になった時点です。
関ケ原以後についても、同様なんでしょうが、あとは徳川政権(幕府)に引き継がれました。
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徳川家康公の石高アップに到底かなわないがささやかな私の人生!
「徳川家康公」
も、発生の岡崎を含む、所領の石高の水推移を年表にして、そして増えた理由も転記しながら、まとめてみました。
内容は上の通りですが、増え方が凄まじいですよね。
徳川家康公の、転機はやはり織田信長との、連合ではなかったかなぁと思います。
元来は、祖父の時代から尾張とは戦状態だったわけですから、さらに父の時代も今川の人質で今川方に付いていたわけです。
桶狭間で今川義元が討たれると、岡崎城に入り、そのままお家再興を果たしました。
そこからのスタートでしょう。
三河一国は、即平定し遠江に侵攻し、東に向かいます。
ここで、やはり注目すべきは東は徳川で、西は織田信長でどうも密約があったとみるのが、正解に私は感じます。
東が安定していれば、織田信長は西にどんどん進めるわけですから。
この辺で役割分担が、できていたんだと私は思いますね。(いうまでもないかな‥多分)
だけども、困ったときにはお互いに助け合う。
良い例が長篠の合戦かと。
ここで武田は、完膚なきまでに叩かれ、敗北し滅亡へと向かっていきます。
さすがだなぁと思ったのは、本能寺の変の後、電光石火の如き。
甲斐と信濃の半分を一気に攻め取ります。
機を見るのが上手かったんだと思います。
現代では、こういった時代では無いですから、場所は戦場から、企業のマネーゲームなっているような、そんな気もします。
昔の戦国の時代の国が、今は会社になって、覇を競っているのかなと言う気がします。
私の勤務する中小零細の会社から、世界的な大企業まで、今はこちらが戦国時代かと。
私の石高は上がったのか?私の人生!
さてどうでしょうか?
私の家は、ご先祖様が建てた家でした。
約250年ほど前だと思いますが、私はそれを建て替えました。
もちろんご先祖様の、法要も行いましたが、大変申し訳ない気持ちでしたが、時代の流れかと。
石高=収入なんでしょうが、あんましぱっとしませんね。
最高年収は、30代の時です。
今その数分の一程度。
でも食えているから、不思議な感じがします。
なんで?
の世界ですね。
それなりに、収入に合わせて食っていければそれでいいのかな!
最近はそんなふうに、思ったりします。
どうしても皆さん、身の丈以上のものを求めているような・・・
高年収なのに、生活が厳しい!
そんな話題も、ネット上ではよく見ます。
なんで?
ヤッパシ、それなりの生活に慣れてしまうと、なかなか切り替えられないのかもしれません。
定年したら、原点に回帰してみようかと。
もう一度、無いが(不足)普通の生活に。
さて?
皆さんの石高は如何ですか?
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※情報には、正確さを期しているつもりですが、大幅に間違っているところはないと思いますが、小幅な部分は資料が複数あるために、多少の差はあると思います。
その辺はご容赦ください。
ヘッダーの写真は、愛機のフジの一眼で撮影の山形の山寺の写真です。