榊原康政の家系図と正室と子孫のその後!戦国時代の功績年表で解説!

榊原康政は徳川四天王の一人で勇猛果敢な武将で家康公を支えた忠臣!

  • ①:家系図と正室と子孫その後
    ②:榊原家の石高と領地の変遷。
    ③:徳川家最強の功績を年表で解説。
    ④:家紋と墓所と逸話紹介。
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「徳川三傑」で家康公の信頼も厚い武将!

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榊早康政の家系図から見る正室と子供の名前とその後!

「榊原康政」

  • ➀:榊原康政はどんな武将?
    ➁:榊原康政の家系図で正室子供子孫その後

について簡単に解説。

榊原康政はどんな武将?家康公信頼の徳川四天王の一人で三傑!

榊原康政肖像画
(wikipediaより)

「榊原康政」は

  • ➀:徳川四天王
    ➁:徳川十六神将
    ➂:徳川三傑

に入る勇猛果敢な武将。
「徳川三傑」
は他に

  • ➃:本多忠勝
    ➄:井伊直政

のことですが、本田忠勝は同年齢、井伊直政とも親友で、この三武将は大の仲良し。
が・井伊直政に甲州軍団付与の際は反対したらしいですが。

後に、本多家同様に、榊原家でも後継ぎでは苦労するようです。(後に解説)

榊原康政の家系図!父親や正室子供の一覧!

「榊原康政」
の家系図は以下。

榊原康政の家系図
(種々情報を整理し管理人が作成)

正室:大須賀 康高の娘(名前不明)
側室:花房氏
子供は「二男二女」
養子に二人います。

榊原康政の子孫とその後の処遇!江戸時代は?

館林城跡

「榊原康政」
の家系図から子供の名前とその後を以下の表で解説。

正室:大須賀 康高の娘
  長男:忠長母実家「大須賀康高」の後を継ぐ
  次男:忠長榊原家継承の「世子」も20歳でこのないまま早世
  長女:聖興院酒井忠世正室
側室:花房氏
  三男:康勝榊原家二代当主舘林10万石継承:26歳で早世
生母不明
  二女:福正院(鶴姫)姫路藩主池田利隆の正室
養子(養女)
  松月院喜連川義親
  職直榊原 職直として徳川家旗本(2500石)以後に婿養子で榊原本家継承の方も。

次女の方(福正院)の母がどなたか判明できませんでした。
なので、「不明」と。

養子の方は側室の
「花房氏」
の関係で、宇喜田騒動の調停での縁のようです。

本多忠勝の戦国時代の功績!したこと年表で解説

館林城跡の写真

「榊原康政」
の働きと活躍を以下の年表に大所だけですがまとめてみました。

天文17年:1548年榊原長政の次男:三河国上野郷にて誕生
13歳松平元康(家康公)の小姓:三河一向一揆鎮圧戦で初陣
その戦功で「康」の字を戴く。
永禄9年:1566年19歳で元服:旗本先手役:与力50騎付与される。本田忠勝と同年齢で親友
元亀元年:1570年姉川の戦い:側面攻撃で多大な武功をあげる
元亀3年:1572年三方ヶ原の戦い
天正3年:1575年長篠の戦い:内藤昌豊軍から家康公を守る
天正9年:1581年高天神城の戦いで先陣
天正10年:1582年本能寺の変:伊賀越えに同行
天正12年:1584年小牧・長久手の戦い:秀次の軍勢をほぼ壊滅させる:
天正14年:1586年家康公上洛に随員:従五位下・式部大輔に叙任
天正18年:1590年小田原征伐:先手を務める
 同年上野国館林城10万石
慶長4年:1599年宇喜田騒動を仲介
慶長4年:1599年石田三成の伏見館事件
慶長5年:1600年関ヶ原の戦い:徳川秀忠軍に軍監として従軍:遅参する
慶長8年:1603年近江の国5千石科料
慶長11年:1606年)5月6日:毛嚢炎を煩い悪化、14日巳刻に館林にて死去:享年58歳
家督は三男「康勝」が継承した。

「榊原康政」
は「1548年~1606年)の
「58歳」
という寿命でした。
当時としては普通の年齢だったのでしょうが、他の武将と比べると
「短命」
に感じます。
もう少し生きて活躍してほしかったですね。

「榊原康政」と「榊原家」の石高と領地の維新までの変遷!

館林城跡の大手門の写真

「榊原康政」

「榊原家」
の石高と領地の維新までの変遷を以下の表にまとめてみました。

榊原康政
    19歳徳川家旗本先手役:与力50騎
 天正18年:1590年上野国館林城:10万石
家康公より水戸に加増転封打診ありも断ったという説あり。
榊原忠次(三代)遠江横須賀藩で6万石継承:本家榊原家10万石継承:横須賀6万石は幕府に返上
   正保4年:1648年白河藩14万石に転封
    その後姫路藩15万石に国替
榊原 政倫(五代)姫路藩継承も越後村上藩15万石に転封
榊原 政邦(六代)姫路藩15万石に転封
榊原 政岑(八代)越後高田藩に懲罰的な転封(15万石)
榊原 政敬(14代)そのまま越後高田藩15万石で明治維新を迎える

紆余曲折の明治維新までの流れ。
「榊原 政岑(八代)」
の時は、どうやら最大のピンチ。
吉原での遊興が、当時の八代将軍
「徳川吉宗公」
の逆鱗に触れ、よもやの改易?

しかし、そこはやはり
「徳川四天王」
の末裔。
懲罰的とはいえ、同じ石高で
「越後高田藩15万石」
に国替えで。
が・・雪深いのでそれと種々の条件も重なり実質的な
「減封」
です。
明治維新までそのまま藩は存続しました。

榊原康政(榊原家)の家紋と墓と死因!逸話

「榊原康政」の

  • ➀:家紋
    ➁:死因と墓

の場所など解説。

榊原康政の家紋は「榊原源氏車」!線は12本!

「榊原康政」
の家紋は
「源氏車」
と称する紋です。

源氏車家紋

この家紋は主に
「佐藤氏」
が使用。
佐藤氏の起源は平安時代の
「藤原秀郷」
の子孫。
「左衛門尉」
という官位につき、佐野に住んだと言い伝えられています。
その「佐野」が
「佐藤」
になったと‥ほんとかな?
でもそうらしい!

そしてその一族が伊勢の国
「榊原」
に住んだことから
「榊原」
と改名して
「榊原氏」
を名乗ったという言い伝えです。

その縁で「榊原氏」の家紋は
「源氏車」

しかし、同じ源氏車でも真ん中の牛車の車輪の線の数が
「12本」
他には8本とか6本とかあるようですが、「榊原康政」の榊原氏は
「12本」
です。

真ん中から360度に12本の線が広がるイメージは、日本の象徴にも思えます。


榊原康政の死因と墓所の場所!

「死因」
は「毛嚢炎を患い」とあります。
初めて聞いた病気ですがこんな内容です。
毛嚢炎(もうのうえん)」とは?
以下の解説。

➀:毛根を包む毛包や毛嚢に炎症が起こった状態
➁:面にとどまる炎症を毛包炎、毛包の下部まで炎症が及んでいる
➂:細菌(主に黄色ブドウ球菌)が感染することで炎症が起こる

こんな内容です。
今の時代では、医学が進んでいてなんてこともないようですが、当時はこういう症状でも
「重症化」
する時代だったのかと。

いずれこの病気で舘林上にて死去しました。
「1548年~1606年)の生涯。
「58歳」
の波乱万丈で、勇猛果敢な武将の人生でした。

高野山奥の院の写真

墓所は
群馬県館林市楠町の善導寺
もう一つは
和歌山県高野町の高野山奥の院
更に
新潟県上越市の榊神社
は、榊原康政が「祭神」。

着用と言われる具足や馬印などが所蔵されていると言われます。

「榊原康政」の逸話と武勇伝!徳川幕府成立に貢献!

「榊原康政」
の武勇伝や知性をうかがわせる逸話を解説。

「榊原康政」実は文武両道だった

館林城跡公園の写真

幼い頃より「勉学」を好み「字」も大変にうまかったと言われます。
それが高じて主に
「外交」
を担当することが多かったようです。

その書は「三河大樹寺」で学んだ
「能筆家」
とも知られ、行政能力に長け
「家康公」
の書状もよく代筆したとされています。

有名な「小牧長久手の戦い」の際、前年に信長公三男の
「織田信孝」
殺害の秀吉公非難の書も、達筆な字で書かれたと言われています。

「書家」
の一面も併せ持っていました。

徳川三傑の井伊直政と本多忠勝とは親友の仲!

特に「井伊直政」と親友以上の間柄。
以下の言葉。

「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」

刎頚之友とも言わんばかり。
残念ながら
「井伊直政」
は先に逝ってしまいました。

更に『武備神木抄』にはこう書かれています。

「康政は武勇では本多忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り、井伊直政に匹敵する」

ってことは、この文面から
武勇の一番は「本多忠勝」
指揮官としては一番は
「井伊直政」
その下の順番になろうかと。

家康公と秀吉公和解の使者として指名された!

和解の使者として
「秀吉公」
にご指名。
理由は、上記の小牧長久手の戦いでの
「檄文」

秀吉公との対面で秀吉公曰く

「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」
(wikioediaより)

さすが、関白殿下、懐が深いですね。

旗差しは「無」の一文字!どんな意味が込められているか?

旗差しの馬印の
「隊旗」
には「無」の一文字。
どんな意味だったのか不明のよう。
しかし信条から

「無欲無心」

の意味は推察できます。
言われている理由は

  • ➀:無欲無心で家康公のために戦う信念
    ➁:常に無名の一将でありたいという願望

があったと。
どちらも正解かと。


家康公は徳川三傑に冷淡だった?古参は冷遇は事実?

さてどうなんでしょうか?
「井伊直政」
は、関ケ原で大活躍。
「我らが戦でござる」
で、使命感が半端ありません。

しかも娘婿は家康公の四男
「松平忠吉」
で、ともに先鋒で抜け駆け。

井伊直政は家康公の信任は特に厚かったようですね。
そのせいか徳川譜代では最高の石高。

関東移封:12万石
関ケ原後:佐和山18万石
大坂冬の陣後:彦根藩30万石

本多忠勝は総じて10万石後に15万石
榊原康政は10万石、その後15万石

確かの本多正信(正純)の宇都宮藩と比較すると、確かにな~~とは思います。
この石高・・さて?

しかも、それぞれに家康公の直々の家督相続の指示もあったことから、これは別格
江戸時代でも、お家騒動その他あっても
「改易」
は考えられなかったようです。

古参の部下には冷淡とはいえ
「家康公」
はしっかりと見ていたという事の証かと。

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徳川四天王「榊原康政」の感想とまとめ

館林城跡公園の風景写真

「榊原康政」
の家系図で、正室側室と、子供の名前とその後を解説しました。
更に「榊原家」の明治維新までの経過も。

「榊原家」
は「本多忠勝」の本多家同様に
「家督」
の存在で苦労したようです。

そこで役に立ったのが本家筋からの
「別家」
ですね。
まるで徳川御三家のようです。
転ばぬ先の何とかで、先々の相続を考えるととても役に立つこと。
尤、棚ぼたでそうなったのですが。

「徳川三傑」
の中で、どうやら
「井伊直政」
の手腕は、外交的に状況を見る判断力など
「傑出」
した存在に感じます。

その次が「榊原康政」
「本多忠勝」
は武勇では一番。
それと、人間味はあったようで部下からも多く慕われていた様子を感じます。

この三人は、それぞれに良い物をもって、徳川幕府成立に
「傑出した存在」
だったのは誰もが納得のこと。

書いていて、とても参考になった方でした。


*ヘッダーの写真は、私が撮影した松島瑞巌寺の風景写真です。
カメラはフジX-t4です。

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