北条義時の正室と側室と子供の名前と何人いる?その後の処遇を解説!
北条義時の正室と側室の方の名前と、それぞれの子供の名前と、その後の処遇と境遇、人生を見ていきます。
・義時の妻と側室と子供の家系図。
・子孫の名前とその後の処遇。
・北条泰時の母とその出自。
・北条義時の墓の写真。
地方の小さな武士が執権職に。義時の功績は大です!
Contents
北条義時の家系図!妻と側室と子供の位置関係!
「北条義時」
の家系図は以下です。
*概ね、上の家系図によります。
情報を整理しながら、作成してみました。
分からないこともあったので、その辺は容赦ください。
北条義時の正室は姫の前!子供は二男一女!
(管理人撮影円覚寺)
北条義時の正室は「姫の前」と言います。
父は鎌倉の有力武士の
「比企朝宗」
という方。
そもそもは「源頼朝」の侍女・
というよりは、今でいうならバリバリの官僚のようですね。
勿論、大の「頼朝」のお気に入り。
なんとなく、何かを感じますね~~~
幕府(大倉御所)に出入りする義時は、「姫の前」に一目ぼれ。
この時代の、定番の恋文を1年間送り続けたとか。・・しかしみのらぬ恋。
そこで仲を取り持ったのが「源頼朝」
「絶対に離縁いたしません」
という、誓文を義時に書かせて、姫の前も納得。
その時1192年(建久3年)9月25日が、嫁いだ日です。
姫の前は、「吾妻鏡」にも登場!
その中で
「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり」
と記載されています。
絶世の美女だったんでしょうね~~
しかし、頼朝の死によって、状況が一変。
建仁3年(1203年)9月に比企能員の変が勃発。
姫の前の実家である、比企氏が義時率いる北条軍に滅ぼされます。
その後離縁して(約束状を破るんですね~~)、京に上り「源具親(みなもと の ともちか)」と再婚。
その後
1:源輔通
2:源輔時
が誕生したと。
承元元年(1207年)3月30日亡くなったという記述があるようですね。
姫の前との間には二男一女!
ほどなく子供が生まれます。
- 次男:北条朝時:1193年誕生
三男:北条重時:1198年誕生
長女:竹殿
が誕生します。
三人のその後の境遇は以下。
次男:北条朝時:名越流北条氏の祖。
祖父・北条時政の屋敷であった名越邸を継承した事により、名越 朝時(なごえ ともとき)とも呼ばれたとあります。
3代執権泰時と共に鎌倉に貢献
三男:北条重時:極楽寺流の祖
六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』の作者で知られる。
(wikipediaより)
優秀な方だったんですね。
長女:竹殿
はじめは大江親広の側室であったが、承久3年(1221年)承久の乱において親広が失脚。離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。
仁治3年(1242年)、幕府の意向による後嵯峨天皇擁立にあたり、竹殿は鎌倉の泰時と京の定通との間の仲介役となっている。
(wikipediaより)
此方の方も、重要な役目を担っていたんですね~~
北条義時の側室「阿波の局」・子は三代執権北条泰時!
(管理人撮影:明月院の丸窓)
北条義時が、正室「姫の前」と結婚した時は、義時が「28歳」の時です。
さすがに当時では、それまで独り身とは、考えられないです。
「阿波の局」
の出自は、わかっていませんが、「女官」であることは、間違いなさそうなので、政所の「大倉御所」に勤務していたのでは?
そんな想像です。
一節には「加地信実」の娘ではないかと、言われています。
確かに、検索で「wikipedia」には、そういう記述がみられます。
加地氏は、こういうお家です。
父盛綱は平氏追討に功をたて越後国加地荘(現在の新潟県新発田市)を賜り土着し、加地氏の祖となった。
(wikipediaより)
父の加地 信実氏は、大倉御所での騒動が記録に残っているので、「阿波の局」も大倉御所に勤務は、当たってると思います。
勝手な推測ですが、その時のお知り合いが、側室に・・かもしれません。
しかし、正室の「姫の前」の前に、すでに側室ですが、「阿波の局」は、比企氏と比して、その身分の低さからか、正室にはなれませんでした。(想像です)
阿波の局の子は三代執権北条泰時!
身分はどうであろうと、子供は一人しか記録になさそうですね。
長男:北条泰時:三代執権
生まれた子は「北条泰時」で、三代執権です。
鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した方。
優秀です。
三代執権就任の時には、異母弟の「政村」と争う(伊賀氏の変)が、余裕で勝利。
優秀な方でした。
此方は「北条得宗家」です。
北条義時の後妻(継室)「伊賀の方」・子は三人!
(管理人撮影;英勝寺の竹林)
北条義時の、正室「姫の前」と離縁ののち、ほどなく後妻(継室)に迎えたのが
「伊賀の方」
出自は、藤原秀郷流の関東の豪族、伊賀朝光の娘とあります。
伊賀頼光という方は、こういう方のようです。
伊賀 朝光(いが ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人。伊賀氏の祖。
蔵人所に代々使えた官人の出身で、朝光が伊賀守に任じられて以降、伊賀氏を称した。建久元年(1190年)11月の源頼朝の上洛に供奉している。正治年間に左衛門少尉、承元4年(1210年)3月に伊賀守に任じられる。建暦2年(1212年)12月、従五位上に除す。
(wikipediaより)
北条義時の後妻に上がったことで、どうやら鼻息が荒かったようですね。
北条義時の死後の
貞応3年(1224年)6月の伊賀氏の変で、この「政村」と泰時の三代執権職を争わせたのですが、敗れて伊豆北条へ配流。
「北条政子」のでっち上げという説もあって、定かではなさそうですが、変があったのは事実。
伊賀の方の子は三男一女!
北条義時と、「伊賀の方」の子は以下です。
- 五男:北条政村:7代執権:政村流北条氏の祖
六男:北条実泰:金沢流北条氏の祖
七男:北条時尚:記録なし:伊賀氏の子かどうか怪しい系図では不明にしました。
次女:一条実雅室(名前不明)
以上ですが、伊賀氏の変の時に、「北条政村」を義時の後目に押したのですが(説では)、北条泰時に敗れ、変の責任を取らされ「伊賀の方」は伊豆北条へ「配流」。
しかし、当の「北条泰時」は、この「伊賀氏の変」を否定。
政村と実泰は、連座を逃れて無罪放免。
のちに、「北条政村」その時の変の目的通りに「7代執権」
「北条実泰」は、金沢流北条氏の祖ですが、精神的な疾患があった模様。
日本最古の武家文庫、金沢文庫を創設した「北条実時」はこの「北条実泰」の子です。
しかしながら、「実泰」は、27歳で出家して、家督を嫡男「実時」に譲ったとあります。
*大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では「のえ」として登場します。
北条義時の側室「伊佐朝政の娘」・子は北条有時!
(管理人撮影)
北条義時の側室「伊佐朝政の娘」とだけ、記載があります。
しかしながら、初代執権北条時政の孫で、源頼朝正室の北条政子は伯母にあたるとあります。
北条氏とは、もともと関係が深い間なんですね。
「伊佐」氏の説明は以下。
伊佐氏(いさし・いさうじ)は、平安時代から南北朝時代まで常陸国伊佐郡(現・茨城県筑西市)に住した伊達氏の祖とされる一族。
従来は藤原氏の藤原北家山蔭流とされてきたが、下毛野朝臣とする説も提唱されている。
(wikipediaより)
側室「伊佐朝政の娘」・子は北条有時!
子は一人です。
四男:北条有時:1200年(正治2年)5月25日生
実際は、義時の「四男」に当たります。
しかしながら、通称は六郎で義時の葬儀の際は、政村、泰時よりも下位で、最後尾。
これはやはり、出自の家格なんでしょうね~~
承久3年(1221年)の承久の乱では兄泰時に随伴して京都へ進撃する軍勢に参加。
最終的には、評定衆まで昇格。
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NHK大河は存分に楽しませていただきました。
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北条義時の正室と側室の名前と子供の名前とその後のまとめ!
以下にまとめてみました。
正室:姫の前
- 子供次男:北条朝時:1193年誕生
三男:北条重時:1198年誕生
長女:竹殿
後妻(継室):伊賀の方
子供
- 五男:北条政村:7代執権:政村流北条氏の祖
六男:北条実泰:金沢流北条氏の祖
七男:北条時尚:記録なし
次女:一条実雅室(名前不明)
側室:阿波の局
- 長男:北条泰時:三代執権
側室:伊佐朝政の娘
- 四男:北条有時
と、正室側室は4人。
子供は七男二女の9人です。
皆さん、立派に活躍されましたね。
一時期の騒動はありましたが、おおむね立派な方々のように感じます。
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平清盛公は平家のラスボスでしたね。
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北条義時の墓は法華堂!
北条義時の墓は、西御門にあったとされる法華堂。
写真は以下。
この階段を上ると、墓所があるようなのですが、整備がいまいちのようですね。
ぜひ、大河ドラマのきっかけで、整備してほしいと思います。
日本の歴史を作った方でもありますから。
北条氏執権の感想とまとめ!
(偶然に海蔵寺にて)
2022年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」です。
中心は北条義時。
北条義時は、承久の乱を機会に、鎌倉北条氏の執権を確たる制度にした、そんな方と私は認識します。(諸説ありますが)
正室、側室含めて、わかってるだけで4人ですが、その関係もなんとも、この時代を背景にしていると思います。
家督を継いだのは、正室の子ではなく一番最初の「阿波の局」の子「泰時」
しかし、子供はみな北条氏を盛り上げるべく、協力しているように見受けられます。
北条という名の家が、一致団結している証左かと。
徳川将軍家や、伊達政宗の側室の子達も、おおむねの方は一族を盛り上げるべく、働いています。
同じですね。
決まったことには従う。
これが、日本の独自の民主主義文化だと思います。
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*ヘッダーの写真は、我が家の庭の写真です。
10月の風景です。