北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!
鎌倉北条氏代々の家系図を、「北条義時」と「北条政子」との関係を起点に、また執権職の意味(定義)ついて。 ・北条氏のルーツは桓武平氏なのか? |
この時代将軍職が天下り(?)とは驚きました。(私の勝手な解釈)
Contents
鎌倉北条氏(執権北条氏)の先祖は桓武平氏?家系図で!
(鎌倉海蔵寺にて偶然に)
よく誤解を生むのですが、戦国時代の「北条早雲」からの、北条家とは、こちらの「北条家」は違います。
差別化を図るために
1:鎌倉北条氏
2:執権北条氏
と言われます。
鎌倉北条氏のご先祖は桓武平氏なのか?
系図を作成してみました。
なお、諸説あるようです。(時政以前)
(管理人情報を基に作成)
北条氏は、代々伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族です。
しかしその出自は
「平直方」
を始祖とすると、自称しています。
しかし諸説あるようで、ここでは一つの説として、紹介します。
さて・・その「平直方」という方はこんな方です。
平 直方(たいら の なおかた)は、平安時代中期の武将。桓武平氏の当主で、摂関家の家人として在京軍事貴族でもあった。平忠常の乱の際には、追討使として討伐にあたった。
(wikipediaより)
本拠地は鎌倉。
以下のような、系譜です。
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-平国香-平貞盛-平維将-平維時-平直方
そしてそのあとなのですが、諸説あるのですが私の独断でこうなります。
直方 — 維方 — 時方 — 時家 — 時兼 — 時政 (中条家文書)
*文書によって時家、時兼の順番が‥
ここまでくると初代執権の「北条時政」が出てきます。
歴史の表舞台に出てくるのは、この「北条時政」からですね。
しかし、「源頼朝」が平氏に反旗を翻し、兵をあげた場所と応援した北条氏が「平氏」とは、ちょっと驚きです。
北条時政以降の系譜!家系図はどうなる?
北条時政を初代と考えた場合に、そのあとの系譜です。
こちらの方が、興味津々ですね。
こんな家系図になります。
(デジタル大辞泉)
図中の数字は、執権職の順番です。
最後は「北条高時」で終わっています。
鎌倉北条氏の歴史の表舞台は北条時政より!初代執権職!
北条氏の代々の執権職は、上の図で明白です。
北条氏は、平氏の「平清盛」が栄華を誇っていた時は、伊豆地方の、豪族でした。
そこへ、「源頼朝」が伊豆に流罪となってやってきたんだな。
しかし、源頼朝は清和源氏の直系で、名高き「源義家」の直系。
源氏の直系が、平治の乱で悉くいなくなったので、末は源氏の棟梁の血筋。
放ってはおきませんね。
「北条時政」
の、娘の「政子」は「源頼朝」の正室。
そして、対「平氏」打倒を掲げて挙兵。
「義経」
の活躍もあって、源氏の大勝利で、時代は大きく動きます。
「源頼朝」
は、鎌倉幕府を開府して、初代征夷大将軍職に。
めでたしめでたし・・なのですが、なかなかそうは上手くはいかないのが、権力を手にした人たちの常です。
執権職とはどんな役目だ?
この場合の執権職とは
「将軍を補佐し、政務をつかさどる重要な立場(役職)」
のことを言います。
しかし、鎌倉幕府の将軍は三代「源実朝」で、絶えています。
しかし、北条氏の執権政治は続きます。
驚くべきことに、そのあとの将軍職は、
京都の朝廷からの、有力な摂関家、または皇族に将軍職を依頼し、名目上の将軍職を維持したんだな。
名目でも将軍はいるのですから、それを補佐する形での、執権職を「北条家」は維持することに成功。
こうして、鎌倉幕府を存続させて、権力は北条氏一族が、「執権」として維持するという、そんな構図です。
して・・その実朝以降の将軍は誰がなった?
鎌倉幕府の代々将軍職の系譜!実朝以降は朝廷から派遣!
以下になります。
初代 | 源頼朝:6年6か月:河内源氏:53歳 |
二代 | 源頼家:1年2か月:河内源氏:23歳 |
三代 | 源実朝:15年4か月:河内源氏:28歳 |
四代 | 藤原頼経:18年3か月:藤原氏(九条家):39歳 |
五代 | 藤原頼嗣:7年10か月:藤原氏(九条家):18歳 |
六代 | 宗尊親王:14年3か月:皇族:33歳 |
七代 | 維康親王:23年2か月:皇族:63歳 |
八代 | 久明親王:18年10か月:皇族:53歳 |
九代 | 守邦親王:24年9か月:皇族:33歳 |
と、こんな具合に、名目上は鎌倉幕府は維持されてきたんだな。
これには驚きました。
それを補佐する役目として「執権職」があって、それに代々世襲で「北条氏」がついて、執権政治を維持してきたわけです。
(wikipediaより)
上の図は、各将軍の出身の系譜を、図で示したものです。
当時の天皇の子息であることが、読み取れます。
現代でいえば「天下り?」かな‥多分。
しかし天下り先が「将軍職」とは、すごいですね。
北条義時と北条政子の関係を解説!
此方は、北条義時の家系図です。
*情報をもとに私が作成しました。
北条時政の次男:北条義時:二代執権職
長女:北条政子:源頼朝の正室、尼将軍とも言われる
姉と弟の関係です。
しかし、こと権力が絡むと、その立場は微妙に。
しかしながら、ここは鎌倉幕府の風雲急な時期は、互いの存在感を発揮したように、私は感じます。
鎌倉幕府執権政治はこうして確立された!
諸説あるかもしれませんが、まとめてみました。
承久元年正月27日、三代将軍源実朝が、二代将軍頼家の子、公暁に誅殺されます。
この時の式典で、太刀持ちをする役目が「北条義時」であったのですが、体調不良を理由に、源仲章と交代。
この時に、実朝と同じに源仲章は亡くなっています。
義時は、難を逃れたことになりますね。(諸説ありますが、一応そういうことで)
さて、ここで、実朝には子がなく、源氏の正当な継承者の、鎌倉将軍の血筋が途絶えてしまいました。
頼朝には異母弟がいたのですが、その将軍の座を望んで挙兵した時元を義時が打ち、公暁に荷担したとの嫌疑で公暁の異母弟禅暁を誅殺。
なので困った幕府・・と言っても一番困ったのは「政子」と「義時」ですね‥多分。
事前に、「政子」が、朝廷で後鳥羽上皇の親王を、と言って交渉したのですが、上皇がこれを拒否。
すったもんだの末に、落ち着いたのは、皇族将軍はあきらめて、頼朝の遠い親戚で、摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れた。
しかしこの時「藤原頼経」はなんと、まだ1歳。
実際に将軍になったのは、この7年後のこと。
その間、どう対処したか?
こうなったんだな。
北条政子:尼将軍として頼経の後見と鎌倉殿を代行。
北条義時:これを補佐する執権として実務をつかさどる
こういうところに落ち着きました。
承知のように、政子はいずれ失脚しますが、執権の地位の「実権」は、代々北条氏の世襲になりました。
北条義時の執権を強固にした承久の乱!
鎌倉殿の力(北条氏)が強くなるのは、面白くない「後鳥羽上皇」。
これは、朝廷と鎌倉幕府との戦いです。
後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)5月14日討幕の兵をあげ、15日に「北条義時」追悼の「宣旨」を全国に向けて発布。
あっという間に「北条義時」は朝敵に。
最大の危機ですね。
当時は、まだ朝廷は絶対的存在で、朝廷に弓を引くなどとは、思いもよらないことで、相当鎌倉幕府内では動揺があったようです。
しかし、尼将軍の政子は、源平合戦を知ってますから、その当時の武士を鼓舞して団結。
「大江広元」
の、「防御では動揺を招く」との意見を取り入れ、京の都に向けて進軍。
総大将は、のちの3代目執権「北条泰時」次男朝時、三男時房を大将軍で、北陸経由で進軍。
なんと、この動員令で集まった兵は「19万人」と言いますから、勝負はあったですね。
5月21日鎌倉を出た幕府軍は、6月15日に京の都を制圧。
これで、勝負ありました。
短期決戦で、天下分け目のような大きな戦もなく、決着しました。
承久の乱以降鎌倉幕府の体制はこうなった!
目を見張るのは、この「承久の乱」の後始末。
以下のようでした。
後鳥羽上皇 | 隠岐島配流 |
順徳上皇 | 佐渡島配流 |
土御門上皇 | 土佐国配流 |
雅成親王、頼仁親王 | 後鳥羽上皇の皇子:備前国に配流 |
仲恭天皇在位70日 | 廃される |
新たに「後堀河天皇」が在位。
親幕府派の公家・西園寺公経が中心になって、朝廷内の尽心の再編成が行われる。
懲罰や論功が行われたのは、当然です。
- 後鳥羽上皇の莫大な荘園:没収され高倉院に寄贈も実際は、支配権は幕府
六波羅探題設置:公家政権(朝廷)の監視場所(京都)
京方武士や貴族の所領:3万か所すべて幕府が没収し、恩賞として与えられる
そしてこれが肝要!
この勝利で、鎌倉幕府執権「北条義時」の絶対的権力が確立。
鎌倉幕府が、公家政権に対して支配的優位性を確立させ、逆転させることに成功した、画期的な事件でした。
ある意味、朝廷の権威が、逆転して延々と明治時代まで、これは続くんだと思います。
武士社会が、分岐点であったと思うんだな。
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後の徳川家康公は「武家諸法度」の参考にしたと言われています。
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鎌倉北条氏と執権職の感想とまとめ!
「源頼朝」
が、平清盛によって「伊豆」に流されてきたことで、「北条氏」の運命が、回り始めたんだと思います。
そうでなければ、伊豆地方の桓武平氏の末裔(諸説ありますが)として、一地方豪族で、終わる運命だったのではないかな?
そうも思ってみました。
しかし、そこが運命の分岐点。
北条時政の娘「政子」が頼朝と婚儀になったのが、きっかけで源氏の旗揚げに巻き込まれ、実際に勝利!
鎌倉殿初代将軍の「源頼朝」を補佐する「執権」は、「北条時政」より始まります。
しかし、それを確立させたのは「政子」と時政の子
「北条義時」
の「承久の乱」の大勝利が、それを確立させたんだな。
武士の世界が、朝廷に勝った瞬間だったのでは?
逆転した、武士と朝廷の立場は、その後延々と、明治維新まで続いたのでは?
私はそう思いました。
しかし、他国のように勝利したからと言って、すべて滅ぼすようなことはせず、朝廷は武士の庇護を受けて、延々と受け継がれてきました。
これは、日本的というか、尊敬の念はやはり皆さん持っていたんですね。
誇り高きことだと思います。
この関連は、また別の機会に、紙面を変えて、書き足していこうと思います。
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*ヘッダーの写真は昨年2020年1月に、鎌倉に行った時の写真です。
私の撮影です。