北条泰時の家系図!母や妻や子の名前とその後!したこと年表で解説!
北条泰時の家系図で、母親や妻や側室と子の名前とその後の人生を解説。
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「3代執権」で御成敗式目制定で有名!
Contents
北条泰時の家系図!北条氏3代執権職!父は北条義時!
(wikipediaより)
「北条泰時」
の家系図です。
北条氏嫡流家(得宗家)を継いで「三代執権」。
一説にはこの「北条泰時」からが、北条氏執権初代という説もあるようです。
確かに、体制が整ったのはこの時からのような気もします。
北条泰時の母は側室「阿波の局」!
「北条泰時」
の父は「北条義時」です。
北条義時には
- ➀:正室:姫の前(その後離縁)
➁:継室:伊賀の方(伊賀朝光の娘)
➂:側室:阿波局
➃:側室:伊佐朝政の娘
➄:側室:他
➂番の「阿波局」が、北条泰時の母親になります。
正室の子でない方が、得宗家を継承したのですが、「北条泰時」は、父「北条義時」の
- 「長男」(嫡男)
この頃から、長男(嫡男)が家を継承するしきたりが出てきたのかもしれません。(勝手な推測)
北条泰時の正室と側室と子の名前とその後の処遇!
「北条泰時」
の正室と継室と側室(不詳)と、子供の名前やその後を解説。
北条泰時の正室は三浦義村の娘矢部禅尼!
「北条泰時」
の正室は「三浦義村」の娘
「矢部禅尼」
です。
名前は不明。
「源頼朝」
の命で三浦義澄の孫の一人を泰時に娶らせることが決まり、三浦義村の娘が嫁ぎます。
しかし、なぜか
「北条時氏」
が生まれるのですが、のちに離縁。
理由は不明です。
その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(光盛、盛時、時連)をもうけます。
しかし、「泰時」との子「時氏」の子の
- ・経時:第四代執権
・時頼:第五代執権
で、子(孫)はそれぞれに有力者。
「宝治合戦」
の時は、「矢部禅尼」の子はすべて北条側で、この「盛時」が、三浦氏絶望ののち、その三浦氏を再興しています。
*家系図を参照してください。
この北条時氏のその後!
「北条時氏」
は嫡男。
当然北条得宗家を引き継ぐ立場。
六波羅探題就任時の、延暦寺と朝廷とのトラブルもあったのですが、病気が元で
「28歳で早世」
します。
死因は糖尿病の悪化で尿毒症や腎臓系の病気という説があります。
「泰時」
は愛息に先立たれ、後継者の早世に悲しんだと言われます。
しかし、その子は上記のように4代、5代執権についています。
北条泰時の継室は安保実員の娘で子は時実!
「北条泰時」
の継室は「安保実員の娘」です。
安保実員:武蔵国安保(現埼玉県児玉郡)が拠点の豪族
子は「北条時実」です。
北条時実のその後!
「北条時実」
は、16歳で高橋次郎という方に、殺害されてしまいます。
原因は、仕事上のトラブル・・などと考えられているようですが、はっきりしません。
しかし、犯人の高橋家は絶縁にならず、その後も存続しているので
「時実」
自身にも、かなりの非があった事案かもしれませんね。
くしくも、亡くなった日は正室の子「時氏」と同じ日です。
この事件の三年後です。
北条泰時の側室名は不詳!子供は一男三女!
「北条泰時」
の側室の名は不明です。
しかし子はわかってますので以下に記載します。
公義:三男:泰時59歳の時の子。
僧侶として人生を送ったとあります。(没年不詳)
女子①:三浦泰村室
宝治合戦で三浦氏は滅亡したが「三浦泰村」はその時の三浦家当主。
女子②:足利義氏室
足利宗家3代当主。
女子③:北条朝直室
大仏流北条氏の祖。
「北条泰時」
の子は三男三女になります。
いかに表にまとめてみました。
北条泰時の正室側室とこのその後の一覧!
以下の表で。
正室 | 矢部禅尼:三浦義村の娘 |
子:嫡男 | 時氏:26歳で病気で早世 |
継室 | 安保実員の娘 |
子:次男 | 時実:16歳で殺害される |
側室(名前不明) | |
子:三男 | 公義:泰時59歳の子。僧として人生を生きる。 |
女子① | 三浦泰村室:宝珠合戦で三浦氏滅亡 |
女子② | 足利義氏室:足利宗家三代正室 |
女子③ | 北条朝直室:大仏流北条氏の祖 |
表で一覧にすると、わかりやすいですね。
でも、子供が少なかった方に思います。
北条泰時のしたことを年表で解説!死因は?
「北条泰時」
のしたことを年表で解説しながら死因は?
以下に解説します。
北条泰時のしたことを年表で見てみる!
以下にまとめました。
寿永2年(1183年) | 北条義時長男(嫡男)で誕生:母は側室阿波局 |
泰時10歳 | 多賀重行との問題で頼朝が泰時を重く用いる確証を得る |
建久5年(1194年)2月2日 | 13歳で元服:烏帽子親は源頼朝:頼時と名乗る。 |
源頼朝死後正治元年(1199年)? | 泰時に改名 |
建仁2年(1202年)8月23日 | 三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎える |
翌年 | 嫡男(長男)時氏誕生 |
後離縁 | 安保実員の娘を継室に迎える |
建仁3年(1203年)9月 | 比企能員の変で比企討伐軍に加わる |
建暦元年(1211年) | 修理亮に補任 |
建暦3年(1213年) | 和田合戦の戦功で陸奥遠田郡の地頭職に任じられる |
建保6年(1218年) | 侍所の別当 |
承久元年(1219年) | 従五位上・駿河守に叙位・任官 |
承久3年(1221年) | 承久の乱この時39歳で幕府軍総大将:戦後六波羅探題北方として就任 |
貞応3年(1224年)6月 | 父義時急死で伊賀の方の「伊賀氏の変」勃発 |
泰時42歳 | 第三代執権に就任 |
執権就任後 | 北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き尾藤景綱を任命。得宗・内管領の前身を作る |
嘉禄元年(1225年)6月、7月 | 大江広元、政子が他界。独自方針が可能になる。 |
13人評定体制 | 幕府の最高機関とする |
嘉禄2年(1226年)1月27日 | 三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせ正式に「征夷大将軍」に任じる。 |
嘉禄3年(1227年)6月18日 | 16歳の次男時実が家臣に殺害される事件が起きる |
寛喜2年(1230年)6月18日 | 長男の時氏が病のため28歳で死去 |
寛喜2年(1230年) | 時氏に代わって異母弟の北条重時を六波羅探題(北方)に指名 |
寛喜3年(1231年) | 寛喜の飢饉で最悪の事態に。 |
貞永元年(1232年)8月 | 御成敗式目制定 |
嘉禎元年(1235年 | 石清水宮と興福寺が争い朝廷も巻き込む事件。 |
延応元年(1239年)12月5日 | 三浦義村死去:以降単独での執権 |
仁治2年(1241年)11月25日 | 経時を後継者に指名 |
仁治3年(1242年) | 四条天皇が崩御で新天皇に後嵯峨天皇を即位させる。 |
仁治2年(1241年)6月27日に | 体調を崩すが後に回復 |
仁治3年(1242年)5月9日 | 出家し上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と称する |
6月15日 | 死去。享年60歳。翌日第四代執権に孫の「経時」が就任。 |
一生をまとめると上記の表のようです。
かなり端折りましたが、主要な部分はそれなりに。
北条泰時の死因は?
北条泰時の死因は、京都の公家の日記である『経光卿記抄』6月20日条では以下であると言われます。
- ➀:日頃の過労
➁:赤痢併発
➂:原因で高熱でさながら平清盛然のようだったと。
う~~んですね。
3代執権として、父義時の偉業を受け継ぎ、北条執権体制を確立させた
「北条泰時」
は実に名君と言えるかと思います。
ここに、北条執権体制の基盤が確立したと言って過言ではないかと。
北条泰時が定めた御成敗式目(貞永式目)とはどんな法律?
「御成敗式目」
が制定された背景と、制定に向けて重要視したことを解説。
御成敗式目(貞永式目)が制定された背景は?
御成敗式目が制定された背景は以下。
制定理由➀ | 承久の乱以降新たに地頭が任命 |
制定理由➁ | 各地でその地頭の行動や収入に不満 |
制定理由➂ | それが元で紛争が絶えない |
制定理由➃ | 頼朝以来の前例も適合しない事案が多数 |
これらを理由に新たな法律の制定が必要と「北条泰時」は判断。
13人の評定衆も同意見で、特に以下のことを重視。
- ➄:「道理」(武士社会の健全な常識)を基準
➅:先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本
➆:武家社会の法律にする
以上のことを重視しながら、まとめたのが51箇条からなる基本法典。
「御成敗式目」
又は元号を入れて
「貞永式目」
とも言われます。
御成敗式目(貞永式目)の内容の基本はどこに重点が置かれていた点!
以下の内容が、もっともよく表していると思います。
「北条泰時」
が、六波羅探題の弟「重時」に送った書面。
以下引用です。
多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。
(wikipediaより引用)
ちなみに、徳川家康公の
「武家諸法度」
は、この「御成敗式目」を参考にしたと言われています。
しかし、この時代に斯くも立派な法律が制定されるとは、素晴らしいことを行ったものだな~~と。
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安達景盛は鎌倉幕府内では、大きく飛躍する重臣でした。
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北条泰時の墓の場所!
「北条泰時」
の没年は
- 「1242年(仁治3年)6月15日」
享年60歳です。
墓の場所は「常楽寺(粟船御堂)」です。
この「常楽寺」はもともとは「泰時」の「妻の母(義母)」の供養のために建立したと言われます。
「常楽寺」
は「泰時」の法名「常楽寺殿」から。
「粟船」は地名の「大船」。
大船駅から約1.2kmの距離
場所は以下。
近くには「木曽義高」の墓もあります。
墓所の写真は以下。
(wikipediaより)
墓の写真は以下。
(wikipediaより)
鎌倉周辺には、いろんな当時の史跡が集中しています。
この時代の歴史巡りもいい物だな~~と思います。
北条泰時のしたことや人生に感じること!
「北条泰時」
は名君と言われます。
人的逸話には、人間味あふれるエピソードや、それでいて凛とした豪傑な面もあったようで、しかし公平で。
人格的に優れていたために、多くの武士や公家からの人望があったようです。
古代中国の聖人君子に例えられてもいるようですね。
「北条泰時」
のエピソードは「沙石集」に多く乗せられ、その中では
「まことの賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」
と記載されてると。
また、道理を第一に重んじた方。
が・・承久の乱では、朝廷方との戦で「泰時」は総大将。
いずれ朝廷方は負けたわけですから、良からぬ思いを抱く方もいたようです。
勝負には勝ち負けがありますから、当然ですね。
見方によっては、北条執権政治を確立した
「北条泰時」
こそが、初代執権という見方をする方もいるようです。
いずれにせよ、名君であったことは間違いのない方。
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*ヘッダーの写真は、わたっしが撮影した鶴岡八幡宮の写真です。