明智光秀の本能寺の変時点での石高を年表の推移で!兵力の動員数は!

毛越寺の9月の風景写真

明智光秀が、支配していた地域の石高は何万石?
本能寺の変時点での、支配地域と石高と、兵力動員数はどん位か核心に迫ってみます。
明智家の家紋の桔梗文のいわれやや、簡単な歴史の年表で、活躍を紹介します。
石高からの兵力動員数と、兵力動員数からの石高の逆算で、大方の数字を予測してみます。
本能寺の変の、原因や失敗した要因を、下手な私の推測で。

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明智光秀は土岐源氏の潮流!父と母の名前と生まれは?

 

明智光秀肖像画
(wikipediaより)

「明智光秀」
読み方は「あけちみつひで」です。
生まれなどの、一般的なプロフィールです。

生年:享禄元年3月10日:1528年(明智系図)
没年:天正10年6月14日(1582年7月3日
他『当代記』の享年67歳説(諸説あり)
生まれたところ:美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市:明智軍記):他6か所の生誕地候補があるようです。
父:諸説あり確定できない
母:諸説あり確定できない

「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」

という発言があったことが記されているので、足片尊氏に祖先が使えていたようです。
その後源氏嫡流の「土岐」氏に仕えたので、土岐明智氏の傍流であることは、間違いないかと。

土岐氏を参考までに。

清和源氏流摂津源氏系美濃源氏の嫡流として美濃国を中心に栄えた軍事貴族の系統。
(wikipediaより)

完璧な、清和源氏の流れをくむお家柄です。
「明智」家も、その流れを汲んでいると言われてます。

*諸説あるようですが、明智軍記を主に参考にしました。

 

明智光秀の織田信長家臣としての出世の歴史!

 

「明智光秀」
のわかる範囲、または一般的に言われている経歴を、年表にしてみました。

織田信長の家臣になる以前の経歴!

生まれや、場所は諸説ありますが、「明智軍記」から定めました。
その後は以下です。

居城は美濃の「明智城」(明智軍記)
美濃は土岐氏の支配地でしたが「斎藤道三」が、代わって美濃国主に。

弘治2年(1556年)
斎藤道三に仕えるも、道三、義龍の戦で明智城が攻められ一家離散。
この戦で土岐一族5番目の武将に「明智十兵衛」と記載あり。

その後、越前朝倉家に10年仕える。

永禄9年(1566年)
足利義明方に参陣し足軽衆編入、高嶋田中城に籠城した

永禄10年(1567年)
一乗谷安養寺に将軍足利義昭が移る。同行。東大味に居住

永禄11年6月23日(1568年7月17日『細川家記』)
義昭を征夷大将軍に推挙するよう、使者として織田信長に会う。

この時点で、初めて明智光秀が資料にまとまった形で登場します。
この時、高禄でのスカウトがあったようです。
光秀の叔母が斎藤道三の夫人で、信長の正室の「濃姫」は従兄妹であった可能性が大。

義昭岐阜に入るも同行。
この時の身分は「足軽衆」で、決して高位な勤務ではなかったようです。

永禄12年1月5日(1569年1月21日)義昭が三好三人衆に急襲される。
信長公記では、ここから光秀が登場する。
次月から、文書発給に携わる。

1569年より京都奉行の職務に就く。

永禄13年(1570年)
この時点で、幕府直参の奉公衆になっていた。

どうもこのあたりから、幕府方であっても、織田信長の家臣に近い動き。(二足のわらじ)
行動はすでに、織田信長の与力に近いのですが、籍は幕府側。

元亀元年4月28日(1570年6月1日)
金ヶ崎の戦いの折、(浅井長政の裏切り)秀吉とともにしんがりを務める。

元亀元年4月30日(1570年6月3日)
義昭から所領として、山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられる。

元亀元年6月28日(1570年)
姉川の戦いに参加。
「越前衆に向て、一番柴田明智、二番家康、三番稲葉一鉄」
という記述あり。

元亀2年(1571年)
三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵に対し、摂津の国に出陣。

元亀2年9月(1571年)
比叡山焼き討ちで中心実行部隊で功を上げる
織田信長公より

〇近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)

を拝領。
同時に坂本丈の普請にかかる。

この時点で、織田信長の家臣に編入されたとあります。
それまでは、幕臣のままだったんですね~まことに奇異なことに感じます。

元亀2年12月(1571年)
義昭に暇願を出すも却下。

元亀4年(1573年)2月
義昭挙兵。
この際は、信長側として直臣として参戦。
かつての、上司を袂を分かつ。

元亀4年(1573年)7月
義昭が槇島城で挙兵も、追放されここに足利幕府は終焉を迎えた。

天正3年(1575年)7月
光秀は惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる。

天正3年(1575年)
高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦作戦に従軍。
この年より、丹波攻略を始める。

同年11月7日(1576年11月27日)
正室の煕子が坂本城で病死した。

天正7年8月9日(1579年8月30日)
黒井城を落とし、ついに丹波国を平定が完了。
間髪入れず、細川藤孝と協力して丹後国も平定した。
ここに、丹波と丹後の平定が完了した。

天正8年(1580年)

織田信長公大いに喜び、感情を発行し「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と絶賛!

〇丹波一国(29万石)を加増した。
加えて
塙直政の支配地の南山城も拝領。

与力として
1:細川藤孝
2:筒井順慶
3:池田恒興
4:高山右近
5:中川清秀
6:一色義有

等々で、すべて合わせると、240万石ほどになると言われます。
しかし、これは明智光秀の個人ではなく、あくまでも織田信長という、後ろ盾があってのお話で、軍団で動く場合、それだけの軍を統率する、リーダーだった、そういう事かと。
明智光秀、個人の意向とは、全く違うわけです。

天正9年
『明智家法』制定
『明智家中法度』5箇条を制定

天正10年3月5日(1582年3月28日)
甲州征伐従軍。
武田氏滅亡。

天正10年(1582年)6月2日
本能寺の変
光秀軍:13,000人。

天正10年6月13日(1582年7月2日)
京都天王山山崎で、秀吉連合軍と合戦。
破れ、落ち延びる途中、落ち武者狩りで殺害されたとあります。

しかし、これ以降は、いろんな諸説があります。
ロマンですね~~~

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本能寺の変時点での明智光秀の石高と兵力動員数は何人だ!

 

支配地域は以下。

元亀2年9月(1571年)
比叡山焼き討ちで中心実行部隊で功を上げる
織田信長公より

〇近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)

近江坂本の支配地のマップ

天正8年(1580年)

〇丹波一国(29万石)を加増した。
加えて
塙直政の支配地の南山城も拝領。

丹波の国のマップ
(wikipediaより)

明智光秀の所領は、この三か所です。
詳しく、石高を探るうえで、その後の太閤検地が、有効です。
それによると。

丹波:26万3千石
近江国の滋賀郡坂本:5万石
南山城周辺:1万石
合計で:32万3千石

検地前の合計なら
丹波:29万石
近江国の滋賀郡坂本:5万石
南山城周辺:1万石
合計:35万石

多い方で見て、35万石ですね。
いずれこの間でしょう。

明智光秀の兵力動員数は何人だ?

「明智家法」
では、軍人の拠出を
100石:6人
としていたようです、
ただし、これは荷を運ぶなどの、脇役も含めてです。
通常は100石:2.5人です。
2.5人の場合は、純粋な兵隊さんの人数。

仮説ですが、以下です。
本能寺の変時点で、兵力は13,000人。

35万石で:6人なら:21,000人
2.5人なら:8750人。

13,000人なら逆算すると:3.7人ほど。
恐らくですが、6人と言えども差の2.3人ほどは
1:武器の管理や修理
2:食料などの搬送
3:食料などの炊事班
等々だと思うんだな。
戦に行く場合は、長丁場。
全てを、持って行かないと、数か月も持たないですからね。

2.5人との差は、1.2人です。
個人的に考えて、次の資金があれば、当然かな??
そうも思います。

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明智光秀の実際の石高は?収入がすごかったようだ!

下記の功績で・・

元亀2年9月(1571年)
比叡山焼き討ちで中心実行部隊で功を上げる
織田信長公より

〇近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)

を拝領したのですが、実はこの時に、石高に現れない、重要な褒美があったんだな~~

比叡山の権益です。

1:琵琶湖の水上と陸上の関所の通行税
2:比叡山の金貸しの事業

上名が功にしてみれば、目の上の瘤が取れたので、根くらいはくれてやる・・そんな剛毅な恩賞だったのかもしれませんね。
いずれ、比叡山の全収入が、明智光秀にわたっていたわけです。

では、それってどん位?

比叡山の僧兵の数は幾らいたのか?
それから逆算してみます。
例えば、3000人とします。

3,000人:100石あたり2.5人:12万石

です。
例として3,000人養える石高という考え方。
最低でも、こんくらいかと。
なので実際の収入は

35万石+12万石=47万石

このくらいかな~~って思います。
懐具合のお話でした。

結構お金持ちだったと思いますよ~~~
なので、傭兵も実際は、結構いたかもしれないですね。

・・・・・・・・
武田信玄の、石高の増え方を年表形式で、紹介しました。
ほぼですが、調べた結果と私の推論を合わせて。

武田信玄の石高の推移年表と兵力動員数!風林火山は孫子兵法が由来!

織田信長の最愛の女性は「吉乃」でも若くしてもなくなりに。

織田信長の正室と側室と子供は何人?息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生!

性質、側室と子供たちの名前や処遇など。
まとめてみました。

・・・・・・・・・・・

 

本能寺の変の原因となぜに失敗したのか?

 

「明智光秀」
が、本能寺の変を起こした原因は?
謎です。

いろんな説があります。

1:天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後の宴の席での殴られた遺恨
2:徳川家康公饗応の失敗の責任

しかしながら、このお話は現代では、ありえない話で、否定的にとられているのが、一般なんだそうな。
ではなぜあのような暴挙に出たのか?

私なりに、勝手なお話なので、個人の推論でロマンを!

1:生きてるうちに土岐源氏の旗を立てたかった。

これ、どうでしょうか?
源氏の傍流なら、征夷大将軍の資格もあるわけです。
天下統一の夢を見ても、バチは当たらないかと。

*勝手な推論です。

本能寺の変はなぜに失敗した?

これはもう「先を見通せてなかった!」からですね。
これまで、緻密な戦略と、たぐいまれな調整能力と、軍略に長けていたのに、なぜか自分の事では、客観的な判断ができなかった。

「本能寺の変」

の後のシナリオをどうするか、「自分の立ち位置」をよく把握していないと、この場合のように、誰も賛同してくれないんだな。
これは、大いなる挑戦ではなくて、辛い評価ですが
「謀反」
以外の、何物でもなかったかもしれません。

ビジネスの世界でも、同じことが言えます。
今さえ・・そんなことは全くありません。
先読みをして、あらゆるところに、リスクヘッジをかけていかないと、なかなかうまくいきません。

ある意味、現代に通じるものがあるな~~という印象です。

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明智光秀の家紋は桔梗文!そのいわれについて!

 

明智家は、「美濃の国」土岐氏の一族。
土岐氏の家紋は桔梗紋です。

土岐氏桔梗家紋
(wikipediaより)

上の家紋が、土岐氏の家紋(土岐桔梗紋)です。
土岐氏は、本拠とした土岐の地名は、桔梗の別名の「岡止々支」(オカトトキ)からとったといういわれもあるようですね。
土岐氏初代は「土岐光衝」という方。
戦で、兜の前立てに、咲いていた水色の「桔梗の花」をさして戦い、大勝利。
縁起がいいとして、桔梗の図案を家紋に。
清和源氏土岐市の象徴するものになったと。

下が、明智光秀の陰桔梗紋です。


(楽天の広告です)

確かに、「麒麟が来る」の本能寺の変の時の、旗指物です。
「桔梗」
の花言葉は「誠実な愛」です。
家族や、家臣や支配地域の領民に愛された、明智光秀にふさわしいかと思います。

・・・・・・・・・・
熱心な歴女の方なら、こんなものは大好きかもしれません。

 

こういうアイテムもあるんですね~~
・・・・・・

 

450年の時を経て比叡山焼き討ち供養で明智光秀の子孫が参列!

 

このニュースには驚きました。

元亀2年9月(1571年)
ですから、確かに450年です。
そこで亡くなった、僧侶の方の供養に、それを指示した

織田信長子孫:織田茂和
明智光秀子孫:明智憲三郎

が参列と。
天台宗の総本山です。
ちなみに、世界遺産の奥州平泉の「中尊寺」は天台宗の、東北総本山です。

作家の瀬月内寂聴さんが、ここで「得度式」を行いました。
剃ったのは「今東光」大和尚です。

最澄の教えは

「相手を許すことで、うらみを無くす」

です。
これはいい言葉だな。
歴史は事実ですから、そこから学ぶものは、本当に多いと思います。

・・・・・・・・・・・・

伊達政宗公の、正室と側室や、子供たちのその後です。
一族は、大事にされた方です。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

伊達政宗公の、石高の推移を、まとめてみました。

伊達政宗の関ケ原以前と以後の石高と兵力動員数は?生涯年表で表示!

関ケ原以前と、関ケ原以後です。

・・・・・・・・・

*ヘッダーの写真は、世界遺産奥州平泉の毛越寺の9月の写真です。(私の撮影です)

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