本多正信の家系図と子孫その後!本多忠勝との関係と戦国時代年表!
「本多正信」は徳川家康公の懐刀も出奔の歴史や帰参など波乱万丈の戦国を生き抜いた知将。
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戦国時代の終焉で「武」から「知」でのし上がった武将のイメージ。
Contents
「本多正信」の家系図から見る正室と子供の名前
「本多正信」の
- ①:祖と徳川家臣従の経緯
②:家系図と子孫と名前
について解説。
「本多正信」の祖は「藤原光秀」!徳川氏臣従の経緯
「本多正信」
の父は「本多俊正」という方。
「本多家」
は「藤原光秀」を祖としているといわれます。(以下の家系図参照)
代々(本多正明の頃~)が
①:彌八郎または
②:佐渡の守
と称しています。
当初は松平家重臣
「酒井忠尚」(酒井忠次の叔父)
に仕えます。
徳川家に臣従するのはその
「酒井忠尚」
が、永禄6年(1563年)に松平元康(徳川家康公)に謀反を起こした時のある時点(9月)で
「臣従」
して忠誠を誓います。
「本多正信」の家系図から見る正室と子供
「本多正信」
の祖からの家系図は以下。
(*情報をもとに管理人作成:不足の部分は容赦ください))
「本多正信」
から見て三代目の
「正勝」
の代で、お家(本多宗家)は絶えてしまいます。(改易は正純の時代です)
しかし、「正勝」二男の
「正之」
氏の系統は江戸時代は存続。
内容は後述いたします。
正室 | 「桂芳院殿永昌大姉」浅草の徳本寺に「正信夫人」と記載ありも生年不明 |
後妻 | 寿林尼(釋屋妙受大姉) |
長男:正純 | 本多宗家家督相続その後宇都宮15万5,000石もお家改易 |
二男:政重 | 大谷吉継~直江兼続婿養子~前田家3万石~家老職7万石 |
三男:忠純 | 下野榎本1万石(初代榎本藩)~2万8000石加増の大名も部下により暗殺される。 |
長女 | 三浦重成室 |
次女 | 小栗重勝側室 |
「本多正信」
の正室は名前は不明。
ただし、菩提寺の浅草の徳本寺に「正信夫人」として戒名のみ
「桂芳院殿永昌大姉」
との記載が確認されるとのこと。
その「後妻」は
「寿林尼(釋屋妙受大姉)」
という方。
出自は「松平清康の侍女」ということですが、そうなると正室の方は、かなり早くお亡くなりになった可能性があります。
「松平清康」
は「家康公」の祖父の方。
ちょっと時代が・・と思われるのですが一応そういう情報なので。
それぞれの子供の名前は上記の表の通りなのですが。
「本多正純」
については以下に続きます。
「本多正信」の子孫その後の処遇!江戸時代は?
「本多正信」
の本多宗家を引き継いだのは
「本多正純」
です。
年表形式で。
永禄8年:1565年 | 正信長男(嫡男)として誕生 |
慶長5年:1600年 | 関ヶ原の戦いに従軍 |
慶長13年:1608年 | 下野国小山藩3万3,000石の大名 |
慶長19年:1614年 | 大坂冬の陣での大阪城内堀埋め立ては正純の案と言われる |
元和2年:1616年 | 家康公・父正信没 5万3,000石に加増 |
元和5年:1619年 | 下野国小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増 |
元和8年:1622年) | 山形城の受取り仕置きのち出羽国由利5万5,000石を固持して改易 |
知行1,000石で佐竹義宣に預けられ、出羽国由利へ流罪・後に出羽国横手にて幽閉 | |
寛永14年:1637年 | 3月死去:享年73歳 |
家系図で「正純」には嫡男で
「正勝」
がいますが、幽閉中に正純よりも早く亡くなっています。
「正勝」の子には
- 長男:正好
二男:正之
長男正好:外祖父である美濃国大垣藩主戸田氏鉄の元に身を寄せる。
その後祖父と父の墓参りと称し上野国高崎城下に。
旗本安藤直政の招きで客臣となり、なを
「和田」
と改名しそこで代官職。
二男:正之:配流の地横手にて出生
「正純」死去後成瀬正虎に迎えられ、尾張犬山に居住。
寛文4年(1664年)に赦免され、3,000石の旗本として家を再興。
明治維新を迎えます。
波乱万丈です。
いずれ、本多宗家は
「正純」
の代で改易されて絶えてしまいました。
「本多正信」
は「家康公」から「友」とも言われたのですが、とても残念な結末。
「本多正信」の戦国時代の功績!したこと年表で解説
「本多正信」
の戦国時代を以下の年表にしてみました。
天文7年:1538年 | 本多俊正の次男として三河国で生まれ「家康公」に仕える |
永禄3年:1560年 | 5月19日桶狭間の戦い |
同年 | 「松平元康」(家康公)に従い丸根砦を責めるもひざを負傷し以後足を引きずるように。 |
永禄6年:1563年 | 三河一向一揆が起こる:一揆側に加担し敗北:出奔 |
その後 | 加賀の国を訪れるも諸説あり |
その後「大久保忠世」のとりなしで帰参・鷹匠として使える | |
帰参時期について | 元亀元年(1570年)姉川の戦い~本能寺の変(遅くとも) |
天正10年(1582年)ころには家康公の信頼を回復していたと。 | |
天正10年:1582年 | 本能寺の変:伊賀越えを家康公に従う(が・34名の名に正信がない) |
天正10年:1582年 | 天正壬午の乱:旧武田領併合:奉行として甲斐・信濃の実際の統治を担当 |
天正14年:1586年 | 家康公「豊臣秀吉」に帰属:従五位下、佐渡守に叙位・任官される |
天正18年:1590年 | 小田原征伐:家康公関東に移動:相模国玉縄で1万石 |
慶長5年:1600年 | 関ヶ原の戦い:徳川秀忠の軍勢に従うも上田上の不覚で遅参の失態:上田攻め中止を進言 |
慶長6年:1601年 | 「家康公」将軍職での朝廷との交渉を担う。 |
慶長8年:1603年 | 「家康公:将軍職就任:江戸幕府開府:側近として幕政を主導 |
慶長10年:1605年 | 「家康公:隠居で大御所:江戸で「秀忠」に仕える |
慶長12年:1607年 | 「秀忠」付の老中 |
元和2年:1616年 | 4月:家督を嫡男正純に譲る:6月7日死去:享年79歳 |
その後の本多家は上記に記載。 |
「家康公」
が亡くなった年に、一緒に旅立たれて、まさに
「友」
ともいうべき「朋友」だったのかな~~と。
「本多正信」
が台頭したのはどうも
「本能寺の変」
以降かと。
しかも、武田氏の支配地域の奉行を任されるのですから
「信頼」
はかなり厚かったと思います。
「本多正信」と「本多家」の石高と領地の維新までの変遷!
「本多正信」
の石高は少ないです。
徳川氏の官僚は「武闘派」は多くとも
「文官派」
は少なかったようですね。
天正18年:1590年:正信 | 相模国玉縄で1万石(2万2千石とも) |
慶長13年:1608年:正純 | 下野国小山藩3万3,000石 |
元和2年:1616年 | 5万3,000石に加増 |
元和5年:1619年 | 宇都宮藩15万5,000石に加増 |
元和8年:1622年 | 改易 |
維新まで続きませんでした。
この「正純」の代で改易。
本多家のその後は上記の上で解説(凡そ)しました。
「本多正信」と本多忠勝の関係!親戚?
「本多正信」
と「本多忠勝」
は同じ「本多姓」を名乗っています。
さて親戚?
です。
ただしかなり遠いです。
上の家系図から再度。
「本多家」
の祖は同じなのですが祖から数えて「4代目」の方に
本多助政
という方がいます。
その子供に
①:定正:本多正信:彌八郎家
②:定通:本多忠勝:平八郎家
という流れです。
「本多助政」
以後は、家系図で数えてそれぞれが
6代目、または7代目になっています。
仲はどうだった?
「本多忠勝」
が活躍した時代は「戦に勝つ」が至上命題。
天下統一後は
「どう治めるか?」
時代が求めてるものが、まったく相反する両人に感じます。
「本多忠勝」
は「正信」のことを
「腰抜け」
と言ってたようですが、特に仲が悪いということはなかったようですね。
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「本多正信」の家紋と墓と刀の逸話
「本多正信」の
- ①:家紋
②:墓所と菩提寺
を紹介。
「本多正信」の家紋は「丸に立葵」紋
「本多正信」
の家紋はなんと~~「葵の紋」・・いえいえ
「丸に立ち葵」
と称する家紋です。
徳川家康公はよく見る
「三つ葉葵」
家臣に自身の紋を許可するとはまさしく
「友」
以上の関係だったと思われます。
実は、再仕官を仲介したのは
「大久保忠世」
ですが、当初は
「鷹匠」
での勤務。
しかし、「家康公」は即座に
「本多正信」
の能力を見抜いたかと。
「本多正信は私の朋友」
と「家康公」の発言は有名なお話で記録に残ってる事実。
「本多正信」の墓所は西本願寺!
「本多正信」
の墓所は京都市の
「西本願寺」
です。
慶長6年(1601年)ころより本願寺での内乱兄弟の
①:前法主:教如
②:法主:准如
対立しており、それを利用して本願寺を分裂することを画策。
家康公は、その進言通りかどうかは置いておいても
- ③:西本願寺
④:東本願寺
に分裂したのは事実。
「本多正信」
は河内一向一揆の際に、一揆派で戦い一度出奔しています。
「一向宗門徒」(本願寺)
ですから、そのゆえんかと思われます。
さらにもう一つ。
西浅草にある「徳本寺」ですが、このお寺さんは「本多正信」が三河にあった同寺を
「江戸に移築」
していわゆる
「開基」
になっています。
いわゆる「檀家寺」です。
ここには依然「本多正信夫妻」の肖像画もあったそうです。
(現在は博物館寄贈でない)
「徳本寺」は、一度消失しているらしいので、定かではないですがいわれ的にはつながりが濃いように思います。
「本多正信」にまつわる逸話!これこそ名将の証!
「本多正信」
の逸話を3点ほど抜粋して紹介します。
石田三成に関する逸話二つ!
- ①:石田三成が徳川屋敷に助けを求めてきた件
「本多正信」
は「家康公」を深夜訪れ
「「治部(三成)をどうなさります?」
と質問・・返事は
「いま、考えておるところよ」
と・・それだけで安心したと。
これで会話が成り立つ仲だったんですな~~
- ②:石田三成の嫡男「重家」の処遇について
本来ならば憂いを取り除いておくが常道。
しかし「家康公」の質問に
「他の事情はどうあれ、重家には赦免する理由があります。親父の治部は我が徳川家に大功を立てましたから、それを考慮すべきでしょう」(wikipediaより)
と言ったと。
理由は、石田三成挙兵によって、大一番を演じさせてもらい、しかも天下を取らせてもらった。
その功績は大なりと。(石田三成の功績)
で赦免したと。
正純への遺言!3万石以上はいただくことなかれ!
「本多正信」
の遺言に、正純に対して
「3万石」
までの加増は良しだが、それ以上はいただいてはならぬ。
もしそれ以上の加増を受ければ必ず
「災禍」
が訪れるであろう。
まさしくそうなりました。
ってか‥敵が多すぎましたね。
権力を握ったものの典型にも感じます。
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大久保忠親失脚と大坂夏の陣の羽織袴のいで立ち
「大久保忠隣」
に謀反の疑い?
そんな噂が立った時に、それに輪をかけて足を引っ張り
「大久保忠隣」
を失脚に追い込んだ。
「大久保忠隣」
は自身を家康公にとりなした恩人「忠世」の息子。
「恩を仇で返す?」
が・・これは信ぴょう性はいまいちのようです。
慶長20年:1615年の「大坂夏の陣」でのこと。
あろうことか「本多正信」は先陣に
「羽織袴に飾り太刀」
の格好で参陣。
これにはさすがに諸将の口には出さねど
「不評」
を買ったは当然。
おごりもここまで来たか‥そんな風潮を感じる事件だったそうな。
が‥しかしこの時は多分亡くなる前年ですから
「御年78歳」
です。
とても甲冑なんぞ着れる年齢ではなさそうに思います。
家康公も亡くなる前年。
これをどう見るかは個人の感想次第かと。
「本多正信」の感想とまとめ
「本多正信」
について、戦国時代から江戸幕府(徳川幕府)開府まで、それ以降までまとめてみました。
「戦国時代」
は「本多忠勝」や「榊原康政」のような
「武闘派」
の時代でしたが、天下統一後は知略を重んじる
「文官派」
の時代。
その代表格かと。
しかし、そこにはまだ引退できない武闘派も多数残ってますから、かなり難しい舵切だったとも思います。
「家康公」
の「朋友」とまで言わせる間柄だからこその、生き方だったと思います。
御威光なくば、生き残れなかったかもしれません。
しかしながら嫡男の
「正純」
は優秀な親にして子はちょっとね~~の世界ですね。
うまく立ち回れば、おいしい人生だったかもしれません。
残念です。(こういった例は数限りなく!)
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*へっだーの写真はわたしが撮影した松島の梅の咲いた風景の写真です。