平重盛の家系図を平氏の系図で!妻と子孫のその後!生きていたら?
平重盛は「平清盛」の嫡男で跡取り。
|
重盛亡き後は弟宗盛が継いだのですがタラレバを感じるのは私だけ?
Contents
平重盛は清盛の長男!平氏の系図から平家との違いを!
平重盛は「平清盛」の嫡男。
「長男」
です。
- ・平氏の系図
・平氏と平家の違い
を以下に解説。
平氏の系図と平清盛の家系図から重盛の位置!
平氏には、大きく分けて4つの流れがありますが、一番勢いがあったのが
「桓武天皇」
の分かれの、伊勢平氏。
系図はこちら。
この中で「高望王」が、「平清盛」の平氏の祖。
この方が「多平姓」を受けて
「平高望」
となったところから「平重盛」の系図が始まります。
系図で「貞盛」の子の「維衡」(四男)から始まるのが
「伊勢平氏」
と呼ばれるグループ。
ここが一番、勢いがあったグループです。
平氏と平家の違いはどう違うのだ?
一般的な「平氏」は、単純にそのもとの系図が、4つの流れから来ていますから、そこに属する方は
「平氏」
です。(苗字は平もあれば、北条氏のように様々)
では平家とは?
上の系図で、伊勢平氏の「維衡」(四男)の子の「正盛」から始まるグループは
「六波羅流・六波羅家」
と言われ、ここの系図を称して
「平家」
と言います。
実は、この「平家」以外はすべて
「平氏」
です。
簡単に言うと「平清盛」の系統を「平家」と言います。
それが、益々栄えたら?
さて・・これこそタラレバですが、どうなったでしょうね~~
「源頼朝」
のように、嫡流と傍流を分けて、「御家人」という扱いにしたかどうか?
さて・・ですね。
平重盛の妻と側室と子供たちの家系図!子孫その後!
「平重盛」
は「平清盛」の嫡男(長男)です。
当然、お世継ぎ。
しかし、母親の身分が優先する、その時代では弟「宗盛」(時子の長男)とは、微妙な位置関係だったようです。
平重盛の正室(妻)と側室と子供の家系図!
以下のようです。
(wikipediaより)
家系図から見るように、重盛の母は
「高階氏の娘」
となっています。
片や、重盛の母は「時子」
右近将監・高階基章の娘とあります。
「時子」は平時信の娘で、権大納言・平時忠の同母姉とあります。
一族に有力者を控え、特に平滋子(建春門院)の異母姉という地位は、かなり上。
それでも、清盛は「重盛」に、後目を継がせ・・いえいえ、それがそうでもない事件もあったので、「時子」さんの「宗盛」愛の横やりが、あったかも。
(私の想像です)
妻と側室と子孫のその後を表にしてみた!
以下の表にしてみました
坊門殿(平時信娘:側室) | 父は:官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。 |
維盛(これもり:長男) | 一の谷前後に失踪し入水・屋島を脱走して4月ごろ相模で病死友・諸説あり |
藤原親盛娘 (側室) | 藤原北家為光流、下総守・藤原親通の子:官位は従五位下 |
資盛(すけもり):次男 | 壇ノ浦の急流に身を投じて自害とあります。 |
藤原経子:正室(妻) | 父は中納言・藤原家成。 |
清経(きよつね):三男 | 豊前国柳浦にて入水自殺した。享年21。 |
有盛(ありもり):四男 | 壇ノ浦の急流に身を投じて自害とあります。 |
師盛(もろもり):五男 | 一ノ谷の戦いにおいて最後 |
忠房(ただふさ):六男 | 平家滅亡後出頭し近江瀬田で最期 |
藤原経宗の猶子 | 藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男官位は従一位・左大臣・左大将 |
宗実(むねざね):七男 | 経宗が源頼朝に宗実の助命と身柄の引き渡しを求めて認められた。 |
高清 | 孫:とらえられたが助命嘆願で出家して妙覚と号す。その後は諸説あり。 |
このように7男が存在したようです。
そのほかに
「重実、行実、重遍、清雲」
という、子息がいたようですが、いずれも当初より「仏門」に入っていて、鎌倉殿よりおとがめはなかったとあります。
皆さん、男だけなんですね。
女子はいなかった?
記録をたどってみましたが、行き着きませんでした。
平宗実の子孫は現存する!歴史の証人!
七男の「平宗実」は記録によると三歳で「藤原経宗の猶子」になったとあります。
「藤原経宗」
の身分は、すごいものがあります。
「藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男官位は従一位・左大臣・左大将」
とあります。
どれだけくらいが高いのか?
さて・・私には何とも‥が、左大臣で左大将となれば、容易に位は上とは察せられます。
「猶子」
というのは、「養子」とは違う、後見人とも、一族の結束を強固にするためにあった制度。
しかし、養子と明確な違いも曖昧だったようで、ま~^この場合は「養子」という事で。
「平宗実」
さんですが、以下のようです。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月17日・26日条によれば、平家滅亡後に北条時政の手勢に捕らえられたが、猶父・経宗が源頼朝に宗実の助命と身柄の引き渡しを求めて認められたという。
(wikipediaより)
その後、こんな記述も。
現在、子孫を称する家もあり、鎌倉時代に北条得宗家の代官として関東から宮崎南部へ地頭職として下向した野邉氏は、平宗実の末裔を称し、南朝方功臣家として活躍した野辺盛忠や「日向太守藤原朝臣」を称し、日明貿易を行った盛久は、この嫡流に当たる。現当主家は鹿児島県在住。28代盛栄は男爵位を授与されるも後に返上。29代盛孝は大正年間に近衛師団勤務。32代盛雅は公立学校校長等を歴任。
(wikipediaより)
これは驚きました。
素晴らしいですね。
どんどん、継承していってほしいです。
という事で、「平重盛」の子孫は、一人だけが生き延びて、現存しているようです。
厳しい時代でしたね。
平重盛のしたこと年表で解説!弟宗盛との確執!
「平重盛」
の人生を、簡潔に表に、年表形式でまとめてみました。
生誕 保延4年(1138年) | 清盛の長男として誕生:母は高階氏娘(家系図参照) |
久安7年(1150年)正月 | 従五位下 |
保元元年(1156年) | 保元の乱に父に従って参戦。 |
保元2年(1157年)正月 | 保元の乱の功績で従五位上に昇叙 |
平治元年(1159年) | 平治の乱勃発:正室経子の兄藤原成親助命も肩身が狭い |
平治2年 | 伊予守 従四位下となり、左馬頭も兼任。その後の出世も順調 |
永万2年(1166年)4月~7月 | 左兵衛督、7月には権中納言・右衛門督 |
仁安元年(1166年)12月 | 清盛の後任で春宮大夫、次の年2月権大納言 |
仁安2年(1167年) | 国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立 |
仁安3年(1168年)2月 | 清盛公が病のため出家福原に隠居。六波羅で一門の士気を取る |
嘉応元年(1169年)12月23日 | 嘉応の直訴が起きる。義兄の「藤原成親」をめぐる延暦寺大衆とのトラブル。清盛の指示で解決 |
嘉応2年(1170年)7月3日 | 殿下乗合事件。この件で権大納言を辞任。この頃より「宗盛」の台頭が・・ |
承安元年(1171年)12月 | 妹徳子が高倉天皇に入内、大納言に復帰 |
安元2年(1176年) | 安元の強訴と鹿ヶ谷の陰謀(以下に解説) |
治承2年(1178年) | 徳子は皇子を出産(後の安徳天皇) |
治承3年(1179年) | 病状が悪化し、出家。 |
治承3年(1179年)7月 | 7月29日死去。享年42。 |
波乱の人生です。
しかし、真面目な方だったんですね。
一説には日本での「日本三忠臣」とも言われるようです。
日本三忠臣とは?
- ➀:楠木正成
➁:万里小路藤房
➂:平重盛
のこと。
院(後白河)時頼との間での、国を思う忠義がこういう評価なんだと思います。
鹿ヶ谷の陰謀とはどんな事件だ?
書けば長いのですが、ざっと書くと以下のような内容。
- 1:藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。
2:後白河院が延暦寺に報復決意
3:重盛、宗盛は父「清盛」の指示がなければ動けないと
4:清盛も渋々出兵に応じる
5:多田行綱が、院側の平氏打倒の陰謀を密告
6:重盛の義兄藤原成親も関与
7:清盛は激怒し関係者を断罪
8:重盛の子二人に成親の娘が嫁ぐし、妻は成親の妹。
その藤原成親が首謀者とあっては、収まりがつかず・・重盛は失意の底に。
こういう事件です。
これを機会に、宗盛の後目相続が、現実的に。
次第に、院からも平家からも疎遠になっていくんだったな~~なんとも悲劇。
・・・・・・・
甲斐源氏の祖。
武田氏の歴史はここから始まります・
武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!
源義経は悲劇のヒーロー!
源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!
伝説もあって、今ではとて人気の、歴史人ですね。
・・・・・・・・・・・
平重盛の死因と墓のある小松寺の場所と写真!
ここでは
- ・平重盛の死因について
・墓のある菩提寺について
情報を整理してみます。
平重盛の病気は精神性の胃潰瘍だった!
「平重盛」
の死因については、諸説あるようですが、「吐血」を伴っているので
「胃潰瘍」
の説が有力のようですね。
他には、背中にできた腫瘍や脚気なども言われてますが
「鹿ヶ谷の陰謀」
での出来事と、母親の一族のその事件での凋落は、かなりの精神的負担だったと思います。
しかし、「藤原成親」さんという方は、妻の妹。
その娘は、維盛と三男で経子の長男の清経の嫁。
この結びつきから、もしかしたら自分を極限まで、攻めたかもしれません。
精神性の「胃潰瘍」が、一般的な病名のようです!
平重盛の墓のある菩提寺は小松寺!
「平重盛」
のお屋敷は、京都「六波羅」の「小松第」というところ。
なので本人は
- ➀:小松殿
➁:小松内大臣
とも言われていたようです。
なので、お寺さんも
「小松寺」
になります。
どうやら調べてみると、数か所あるようですが、一番歴史的に古いな~~と思ったのがこちら。
茨木県の「小松寺」です。
住所は以下。
「東茨城郡城里町(しろさとまち)」
というところ。
マップは以下。
(googleマップより)
JR水戸駅から、約17kmほど。
結構ありますね。
水戸駅からは、バスが出ているようです。
寺の外観はこんなお寺のようです。
ここを上った奥に「平重盛」の墓があるそうです。
(wikioediaより)
そもそも、なんで茨城県のこの地に?
実は、埋葬したのは
「平貞能」
という方。
墓を暴かれるのを危惧した「平貞能」さんは、掘り返して、遺骨を持ち、その残土(土)は、加茂川に流したと言われています。
そののち、遺骨は高野山に分骨し、重盛夫人・得律禅尼を伴って、大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)の案内で、この地に着いたと。
義幹から茨城郡金伊野村の白雲山を給りとあり、遺骨をこの山中に埋め、堂塔を建立して
「普明院小松寺」
と称し、義幹の二子を僧とし重盛の霊を弔ったとあります。
案内板には、重盛夫人は平貞能の姉だったとも。(複数人いましたから側室は)
いすれ、この地が安住の地になったようです。
*他にも墓と言われる地があるようです。
・・・・・・・・・・・
鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
源頼朝の源氏宗家の系図。
子供のその後をまとめてみました。
源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!
鎌倉時代の武将などをまとめてみました
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
その後の有力な武将の方の祖先がたくさん出てますね。
・・・・・・・・・
源平合戦にうずもれた才能!感想とまとめ!
「平重盛」
について、解説してきました。
生まれた時から、母の貧弱な系統について、宗盛(三男)との確執があったようです。
結局、時代の棟梁は「宗盛」に行ったんだな。
源平合戦も、いわばこの「宗盛」との戦い。
感じるものがあります。
平家の全権力を持って生きていたらどうなった?
もし、「重盛」が、全権を掌握していたら。
「清盛」
亡き後だったら?
どうなったかなというタラレバの論理です。
その後の戦国の世の人物に当てはめると
- 清盛=信長
重盛=家康
を連想します。
人の生死は、基本的に親が先に逝ってしまいますから、重盛がもし生きていたら、院との対立は生じなく、平家追討宣下もなかったかもしれません。
となると、源氏の旗印も、かなり影も薄くなり、平家の政権は長く続いたかも。
「鹿ヶ谷の陰謀」
で失脚しなければ、院との関係も良好だったのでは?
仮に、鎌倉殿が征夷大将軍になっても、知略を尽くし、奥州藤原氏との連携も模索したかもしれません。
そういうことを考えると、歴史って本当に興味深いな~~と思うのでした。
タラレバは、歴史にはつきものかな‥多分!
・・・・・・・・・・・・・
平清盛公は、重盛の父親。
かなり強権的な方のようですが、時代の覇者は得てしてそんなものかと。
平清盛の家系図と正室と側室と子供のその後!したことの年表と最後!
平家に対する、清和源氏とは?
清和源氏とは?家系図から見る祖と嫡流や河内源氏と鎌倉幕府の改革!
系図で解説しました・
・・・・・・・・
*ヘッダーの写真は、私が撮影した秋の宮城県岩出山有備館の写真です。
とても、いい風景でした。