源頼朝が愛した女性!島津家の祖は鎌倉殿!政子が嫉妬する御落胤説!
源頼朝の正室側室の有力は六人。 名前と出身を詳しく。
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現代なら恐妻家の典型に思える頼朝公!
Contents
伊藤祐親の娘三の前!子は千鶴御前!
「平治の乱」
で、父「義朝」は平清盛に敗れて、非業の最後。
「頼朝」
は、一命を許されて、伊豆に配流。
そこで、預けられた先が
「伊藤祐親」
ですが、あろうことか、その三女の
「三の前」(八重姫)
と・・いい仲・・というか、どうやらこの「頼朝」という方は、「失恋」という概念は、無かったようです。
この時代はそうだったのでしょうか?
「伊藤祐親」
が京都に、出張の3年間の間に、子供もできて。
「千鶴御前」
は、非業の最後で、「三の前」は、怒った父親の
「伊藤祐親」
が他にさっさと嫁がせた。
残念な「頼朝」
でした。
北条政子は時政の娘で「正室」も嫉妬心はピカ一!
2番目が、正室の
「北条政子」
「政子」
は「北条時政」の長女。
弟は「義時」です。
此方も「時政」が京都に赴任中に、互いにできてしまった。
しかし、ちょっと違うのは「政子」は本気度が違う。
親勝りの、気丈な女性だった。
ある意味、源氏の再興を狙う「頼朝」と、この野心が一致した。
そういった方がいいかと。
半ば、駆け落ち状態に「時政」も観念して、結婚を認めるのだったが、それでも「頼朝」の、女性好きは、益々燃え上がるんだな。
何せ、京都育ちですから。
父「義朝」も側室は何人もいましたからね~~。
政子も認めた側室の亀の前!桁違いの嫉妬心発揮の政子!
「亀の前」
は、もしかしたら「頼朝」の大のお気に入りだったかも。
「亀の前」
と、いい仲になったときは、「政子」は長男の「頼家」を妊娠中。
なんか、日本の芸能界(政界だっけか?)でもよく聞くお話のような・・
「亀の前」
の出自は「良橋太郎」の娘とあります。
流刑中からの「よしみ」で、逢瀬を重ねてるうちに、足しげくなっていくんだな。
匿った先は、部下の「伏見広綱」の屋敷・
無事出産を終えて、帰宅した「政子」はその、愛妾のもとに足しげく通う「亭主」の姿に、嫉妬心がメラメラ!
そして「爆発!」
そして、その匿った先の「伏見」邸を破壊。
一部には火をつけたとも(?)・・そこまでやるんですね~女性の嫉妬心は怖いですよ~~。
しかし、亀の前は、そのまんま。
とも、その後消息は取れず・・とも、どうなったのかな?
人妻も関係なしの「頼朝」が初の屈辱!義平の元妻!
「源義平」
は、源氏一門。
その妻は「新田義重」の娘。
恐らく、頼朝にとっては、初の失恋という屈辱。
しかも、こちらは兄弟。
父「義朝」は「三浦義明」の娘に産ませた、れっきとした異母兄弟。
その妻と言うから、これも驚きで、なんと節操のない。
しかし、この妻の方、何せこちらも名門
「新田氏」
の出。
にべもなく、「頼朝」の恋を振ったそうな。
男のプライドをズタズタにされた「頼朝」はなんと~~実家の
「新田義重」
を、源氏一門から追放・・とはいっても、紆余曲折あったようです。(冷遇されたようです)
何せ、新田氏は「八幡太郎義家」からの家系!
未亡人となっていた娘は「祥寿姫」と言うようですね。
*このお話は諸説あるようです。
人妻という割には、その時は未亡人。
義平は20歳で、京都で最期を迎えたので。
島津氏の祖の母は「丹後の局」!頼朝の御落胤説!
「丹後の局」
は、のちに滅亡した、比企判官能員の妹と言われます。
「頼朝」
に仕えていたとあります。
そののちに、寵愛を受けるように。
が・・しかし・・亀の前同様に「政子」の嫉妬心がメラメラ!
それを恐れて、京都に逃亡・・というか、匿ったのだと思います。
そののちに、出産。
めでたく「男児」が誕生。
名前を
「忠久」
と言います。
「惟宗 広言(これむね の ひろこと)」
この方が、父(養父)と言う記載が「wikioedia」にあるので、この方に養子に入れたのだと思います。
その後、当然ですが「頼朝」の庇護のもと、薩摩藩島津荘の地頭職で
「島津忠久」
と改名し、名門島津氏の祖になります。
スカスだ・・
源氏の「源」姓がなくても、鎌倉殿が絶える前に、こちらの筋もあったんですね~~
これは、驚きです。
大進の局は伊達の祖の家柄の出と言う説!
「大信の局」
は、鎌倉幕府の事務どころの「大倉御所」に使える女官(女房)でした。
出自は父が鎌倉幕府の御家人「常陸入道念西」と言われます。
とすると、この方は「源為義」の娘の子となるので、頼朝とは従兄弟ということに。
しかも、この説が正しいとなると、「常陸入道念西」は
「伊達朝宗」
という方で、奥州伊達政宗を輩出する祖の方。
が・・これには諸説あるようですが、ロマンということで。
「大倉御所」
に出仕しながら「頼朝」の寵愛を受けたわけです。
1186年2月26日、男子・亀王丸(貞暁)を出産。
その年に、政子は次女・三幡(さんまん)を生んでいますが、これも実に面白くない。
何せ、出産期がダブルということは、それなりの創造が。
嫉妬がメラメラと・・その後、子は京都の寺に出家。
「大信の局」
も、京都に移住したとあります。
その後、子は紆余曲折の末に、高野山で貞暁(じょうぎょう)と名乗り、源氏の菩提を弔っています。
利根の局の子「大友能直」は九州大友宗麟の祖!
こちらも、ご落胤説です。
側室の名は「利根の局」といいます。
出自は波多野経家の三女と言われます。
上野国利根荘の出身ということで、おそらくは
「利根の局」
と称したのかもしれません。
頼朝との接点は、伊豆・蛭ケ小島で配流の際に、侍女として使えていたと。
その時の子かどうかは、これもまた謎なのですが、政子の逆鱗が怖くて、利根の局の姉の夫である
「中原親能」
に預けられたと。
そこで、1173年に生まれたのが
「大友能直」
と言われます。
しかし、生まれてすぐに「中原親能」の養子に。
その後、頼朝の庇護を受けて、大きく九州を地盤に成長することに。
*大友氏の系図では能直を頼朝の庶子としているようですが、諸説あります。(これも歴史浪漫ですね~~)
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鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
奥州藤原氏の、源平合戦時の「源義経」を匿った、有名な方。
もう少し、長生きしたらもしかしたら、歴史は変わっていたかもしれません。
藤原秀衡の系図と家系図と子孫その後!源義経との関係と平泉金色堂!
源義経の家系図と、奥州平泉のゆかりの地を写真で解説。
源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!
写真は私の撮影です。
胴塚は初めて行きました。
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北条政子の嫉妬深さも何のそのの手口!
ここまで書いてきましたが、どうやら一貫している手口は以下に、私は感じます。
➀ | 職場恋愛 |
➁ | 恋文で勧誘 |
➂ | 基本失敗(振られた)はない。降られたら、父親を冷遇 |
➃ | バレそうになったら他へ移す(京都が定番) |
➄ | 落胤は、領地(地頭)で優遇 |
なぜ京都?
これは、京都には何度も行ってますから、多分出張が多いんだな。(上洛と言うやつですね)
その先での「逢瀬」が目的かな~~など(邪推かもしれませんが)
出張先までは「鬼嫁」はついてきませんからね~~
所詮、今も昔も、考えることは同じようなものかと。
そう思うのは、私だけ?
源頼朝は正室「政子」が中心で恐妻家だった?
「源頼朝」
の女性を、わかるだけ記載してみました。
まだまだ、こんなものではなかろうと思います。
出張先や、出先で宴会で花を添えて・・なんてのは、この時代では普通の、ことだったようにも感じます。
「ご落胤」
とは、江戸徳川の時代にもあったお話。
「源頼朝」
本人にしてみれば、「政子」の逆鱗に触れたくないから、お忍びのこそこそした、そんな状況だったのでは?
多くの、武将は堂々と「側室」を持ってるのに、なんともふがいなかったような、印象を受けます。
スカスだ・・
この時代の女性の人権とは、どんな感じだったのかな~~と。
その、女性次第の印象もしますが、弱い方もいれば、「政子」のように亭主勝りの女性も、いたようにも思います。
その人次第とはいっても、やはり、弱い立場には、変わりないな~~と思う次第。
ある意味、翻弄され続けてる、そんな印象を持ちますが、いつの時代も女性と子供は、しんどいな~~と思います。
*多分の私の所感を入れてますので、そうでない部分があったら、ご容赦ください。
内容は、いろんな情報を基に、まとめて作成しています。
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平重盛の家系図と、妻や子供のその後について解説しました。
平重盛の家系図を平氏の系図で!妻と子孫のその後!生きていたら?
大江広元は、優秀な官僚です。
大江広元の家系図と子孫には誰が?鎌倉幕府成立でしたこと年表で!
鎌倉殿に就職したのは大正解でしたね。
末裔には、安芸毛利氏など、有力な方がいます。
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*ヘッダーの写真は、私が撮影した桜の名所、北上市の展勝地の桜の写真です。