源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!

源義経は悲劇の方で、頼朝との兄弟の確執も。

  • ・義経の家系図で頼朝含む兄弟。
    ・義経の正室と静御前と墓の存在
    ・源平合戦の活躍を年表で。
    ・鵯声と八艘とびの逸話。

 

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鎌倉幕府成立には欠かせない頼朝の頼れる弟・しかし・・

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源義経の源氏の家系図からどの位置か確認!

「源義経」
の父は「源義朝」です。
源氏の本流(嫡流)になります。

河内源氏の流れを清和天皇までさかのぼる!

以下の系図になります。

河内源氏の家系図

この図から、「源義家」(八幡太郎義家)の流れがわかるかと。
その一番下に、「頼朝」がいますが、実際はその時々で、数多くの兄弟がいます。

その兄弟の中でも、甲斐武田氏のように、甲斐源氏という流れと、新田義貞や後の室町幕府開府の「足利氏」のような流れもあります。
しかし、頼朝はその流れの中でも、直下ですね。
源平合戦の、馬印にはこの方しか、適任はいないかと。

その弟が「義経」。

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義経の兄弟を源義朝の家系図から!

「義経」
には、多くの兄弟がいます。。
それを父親の「源義朝」の系図で。

源義朝と義経の家系図

「源義朝」
の子供と、義経の正室と、静御前とその子供です。

「義朝」
の子は、全員が義経の兄弟と言えます。
勿論「頼朝」も。

義経の源平合戦の活躍を年表で!

源義経の写真
(wikipediaより)

「義経」
が、もしいなかったら、さて?
どうしたって、義経が台頭した時点で、「木曽義仲」軍によって、平家は都から追放され、虫の息。
何とかなったかもしれませんが、稀代の戦名人ですから、鎌倉幕府の成立は、かなり遅れたかもしれません。

鎌倉幕府成立にはこんなに貢献した!

分かりやすいように年表に、表にしてみました。

平治元年(1159年)河内源氏の源義朝の九男として誕生。
承安4年(1174年)3月3日近江国蒲生郡鏡の宿で自分で元服「義経」は父の義と源氏初代「経基」からと。
治承4年(1180年)8月17日兄「頼朝」の挙兵を聞き鎌倉に参じる
黄瀬川の陣で頼朝と兄弟の対面、その後軍は「義経」と弟「範頼」の指揮下に。
寿永2年(1183年)10月17日「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」という記載
寿永3年(1184年)宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破
同年2月4日三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破
同年2月7日一ノ谷の戦いで大勝利
同年8月6日後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に。
同年9月河越重頼の娘を正室に迎える(郷御前)
元暦2年(1185年)2月屋島の戦いで勝利
同年3月24日壇ノ浦の戦いで勝利 これで平家は滅亡した。
その後頼朝との仲は最悪になる。よって活路を奥州藤原氏に求める。
文治5年(1189年)4月30日持仏堂で最期を迎える・享年31歳

と、かなり端折りましたが、有名どころを年表で。
ところで、どうして頼朝と「義経」は、こんなに最後敵対したのでしょうか?

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義経が頼朝と犬猿の仲で敵対した理由はこれだ!

以下のように、想像も含めてですが、表にしてみました。

怒りの➀勝手に官位を授かった。頼朝は面目を失った
怒りの➁戦での独断専行と東国武士を勝手に評価し成敗まで。東国は頼朝の基盤。
怒りの➂東国武士の恩賞の機会を奪って、周囲から反感を買う
怒りの➃壇ノ浦での性急な戦で安徳天皇や二位尼を自害に追い込みさらに、宝剣を紛失。

できるリーダーに、あり事の内容に感じます。
部下に花を持たせるが、良しとする場面に、部長がどんどん自分の成績とばかりに、攻めまくる。

部下も形無しで、勝手にやれよ‥そんなところでしょうか。
公平な社長は、そこは見逃さず

「こんのやろ~~~どっか勤務先ないか?」

と言って、今なら左遷でしょうが、昔は何せ命がけの時代。
これ、調べていて、なるほどと、そんな雰囲気でした。

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義経の正室と側室とその最後!

「義経」
は、最後は平泉の「持仏堂」で最期を迎えました。
一緒は正室の「郷御前」
「静御前」
は、とても悲しいですね。

義経と正室郷御前と子の最後は平泉持仏堂!

正室の「郷御前」は「河越重頼の娘」とされます。

「平泉」
に逃げた、一行に藤原泰衡が率いる500の部隊が、藤原基成の衣川館を急襲し、弁慶ほか防戦したが、叶わず。
最後は闘わず、正室郷御前と女子共々、非業の最後を。

現在は、世界遺産の「奥州平泉」の、中尊寺より数百メートル離れた

「高館義経堂」

というところと、いう事で、観光地化されています。
地図はこちら


(google mapより)

高館義経堂の写真
(管理人撮影)

私も何度も行ってますが、奥州平野が真下に見える、景色の良いところです。
「木人形」
が飾ってあって、それらしい雰囲気ですが、ここがね~~と感慨深いです。

静御前と子は悲しい運命!

「静御前」
は悲しい運命。

京都府京丹後市網野町磯地区で禅師の娘として誕生。

文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に。
その時点では「義経」は追討される運命。

その「側室」なら、さもありなんですね。
「舞」を舞う命令に「義経」を恋忍んだ歌で。
頼朝は激怒も、政子は同情。

その時点で、子を宿していたが、男子なら・・・それがまさかの男子だった。
その年の7月、男子を出産。

・・・・

その後、静御前の消息は、京都に・・しかし不明です。

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義経はて白旗神社に!郷御前と子の墓が平泉に!胴塚は栗原市に!

「義経」
は最終的には、藤沢市の「白幡神社」にまつられました。
此方は、確実なようです。

白旗神社の写真

ところが、胴体はそのまま現地に。
なんとも・・・
それは、宮城県栗原市栗駒沼倉地内の半官森に埋葬されたと。
今度行って、お参りしてきます。

そう遠くはないので。

郷御前と女子(当時4歳)は、平泉に墓があります。
中尊寺から、歩いていけますが、金鶏山の入り口付近に

「千手堂」

という、お堂があります。
そこの、隣に二人の墓があります。
私の何度も行ってるのですが、とても悲しくなる場所ですね~~

源義経の墓の胴塚の写真とお参り!

今日【2月20日】行ってきました。
場所は栗原市です。

マップは以下。

ジオパーク記念館のわきを通っていきます。
しかし、案内がないんですね。

入り口にはこんな看板が。

源義経胴塚の写真

その奥には。

源義経胴塚の写真

が‥ここからが問題。
どこをどう行けばいいのか?
聞いてみました・・近くの郵便局で。
んで・・ジオパーク記念館のわきを通っていくと。
入り口です。

源義経胴塚の写真

遊歩道はこんな感じ

源義経胴塚の写真

ほどなくつきます。

源義経胴塚の写真

ここから見た、下界の景色です・

源義経胴塚の写真

どんな思いだったのかな~~と。
感無量でした。

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郷御前と女子(当時4歳)が眠る千手院!

何度も行って、お参りをしたことがあるのですが、写真が見当たらず。
「鎌倉殿の13人」
で盛り上がっているで、この際と、会社の帰りに行ってお参りしてきました。【2月26日:雪がこんなにあります)

マップはこちら!


(google mapより)

平泉駅から、1kmちょっとで、歩くルートなら

毛越寺 → 千手院 → 中尊寺

の順で行けます。
私の何度も歩いています。
千手院の写真はこちら。

千手院の写真

このお堂の、左上に地蔵さんが立っています。

千手院の源義経の郷御前と女子の墓。

説明書きがあります。

源義経郷御前の説明文

これ、以前から思っていたのですが、せっかくの歴史遺産なので、この説明書き錆びていて、もう少し立派にならんかな~~って。
思っていました‥(スイマセン平泉町さん‥)

*中尊寺については、こちらで写真付きで、詳しく紹介しました。

中尊寺金色堂と世界遺産本堂の御朱印!駐車場と観光のアクセス情報!

「世界遺産」
にも登録されている文化遺産。
源義経の最後の地でもあります。
ぜひ一度観光においでください。(私は地元の隣)

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義経伝説で言われる鵯声と八艘とびの逸話

「源義経」
の逸話なら、大きなものは、私なら二つ。

  • ➀:ひよどりごえ(一ノ谷の戦い)
    ➁:八艘飛び(壇ノ浦の戦い)

ですね。

ひよどりごえは急な崖を馬で降りて本陣に突撃!

場面は「一の谷」です。

  • 「鵯越」(ひよどりごえ)は地名。

この山から兵庫県神戸市須磨(すま)区の一ノ谷に降りる坂は,《平家物語》に〈人のかよふべき様候はず,まして御馬などは〉とある断崖であった。
(コトバンクより)

この「一の谷の戦い」
では、正面の生田口から源範頼が。
その背後が、断崖絶壁の「鵯越」。
ここから降りると、平家の本体の真後ろをつけるわけです。

それを馬を駆って、降りたのですから、平家の本体は総崩れ。
馬が大事と「畠山重忠」は馬を背負ったとか。(ちょっと無理かと思うが・・)

・・・・・・・・・・
鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。

鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!

武田信義は甲斐源氏。
武田氏の祖になります。

武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!

木曽義仲の鎌倉幕府への貢献や、したことを年表で。

木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!

子供やその子孫の話など。
・・・・・・・・・・

八艘飛びの部隊は壇ノ浦の合戦!

相撲の手にあります「八艘飛び」は、ここから。
舞の海さんの技を見たことがあります。
現在では、「身軽に飛び回る」ことを、比喩した表現に使われますが、語源はここから。

平教経と船の上で鉢合わせした義経。

「長刀脇にかいはさみ、みかたの船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりととび乗り給ひぬ」
(コトバンクより)

二丈とは6m。
さすがに、そんな身軽な義経を追いかけるのは無理と思った、平教経は追いかけるのをあきらめたと。

但し、これも強調されるのですが

義経が飛び移ったのは一回だけ。
口上では後に、次々に八艘もの船を飛び移ったと伝えられるようになりました。

まあ~それだけ、戦上手でとてもかなわない方だったんですね。

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義経と頼朝に思う兄弟の情!感想とまとめ!

「頼朝」
との確執もあったかもしれませんが、歴史に名を刻んだ方。
義経が、大きな仕事をしていたのは、

1180年の頼朝との対面から、1189年の最後の場面のたったの9年間。

しかも、勢いがよかったのは、壇ノ浦の合戦(1185年3月)までの、たったの5年です。
常勝将軍なら、壇ノ浦の以前、1年ほどに、凝縮されるかもしれませんね。

この間の、戦の場面や私事の事などを含めれば、それこそ激動の時間だったと思います。

半面、頼朝さんにしてみれば、そんな短期間で天下を取って
「鎌倉幕府」
を、成立させたわけです。
そして、源氏の棟梁としての地位も。

兄弟での許せない天下の約束事!

「頼朝」
の気持ちは、ここに尽きるかと。
部下を思いやれない方や、先のことも考えない、熱血漢は得てして、無謀なことをするかもしれません。

赦せることはあっても、これから天下に布武する身としては、示しがつかなかったのかもしれません。

「頼朝」

は本来なら、その時点で逆賊「義朝」と同じ運命であったはず。
それが平清盛に許されて、その時点で、存在しているわけです。

ここを許すと、第二の自分が出てくる。
すると、鎌倉を揺るがす事態も。
そんな禍根は摘んでおかないといけない。

静御前の男子の子は、そんな思いですね。
なんとも悲しいことですが、その時代では、仕方がないことだったのかも。

歴史を、調べていると、現代に通じることも、多数感じます。
参考になることも。
だから、歴史は面白んだと。

・・・・・・・・・・・・
北条義時の正室や側室と子供のその後など。
北条氏は、執権で栄華を極めていきます。

北条義時の正室と側室と子供の名前と何人いる?その後の処遇を解説!

源頼朝の正室と側室と子供の名前。

源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!

したことを年表で解説しました。

・・・・・・・・・

*ヘッダーの写真は、私が撮影した、奥州平泉の毛越寺の写真です。

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