関ケ原の戦いで加増と減封のランキングは?泣いて笑った大名の悲喜!

明月院の裏庭の写真

関ケ原の戦いは、わずか6時間の戦いで、東軍の大勝利で決着。
その後、勝者には石高の大幅な加増が、敗者には厳しい減封(改易含む)のお裁き(仕置き)が。
石高の加増と減封(改易含む)のランキングを、作成したので紹介します。
武将の裏切りや駆け引き、直江書状や、多くのドラマがあった関ケ原の、泣いて笑った大名の悲喜こもごも!

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関ケ原の戦いは誰と誰の戦?場所のマップ紹介!

 

まずは、場所から。
今は、こんな風景です。

関ケ原古戦場後の写真

場所のマップはこちら


(googleマップより)

有名な場所です。

関ケ原の戦いは結局誰と誰の戦いだった?

「関ケ原の戦い」とは誰と誰の戦で、いつ行われたか?
以下の解説です。

時期:西暦1600年(慶長5年)10月21日(新暦)9月15日(旧暦)

東軍と西軍の総大将は以下。

東軍:徳川家康
西軍:毛利輝元

戦った時間:約6時間

しかし、西軍は総大将に担がれたのは「毛利輝元」ですが、実質の権限は
「石田三成」
です。
よく、関ヶ原の戦は、徳川家康と石田三成の戦いと言われますが、石田三成は佐和山19万石の小大名。
したがって、中国地方の雄「毛利輝元」を総大将に、何とか石田三成が担ぎ上げたわけです。

そして、東西併せて、約20万の大軍がここで、決戦を繰り広げました。
裏切りあり、美談ありの天下分け目の決戦です。

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関ケ原の戦いで加増したランキングベスト10位!

 

関ケ原古戦場後の写真

加増された武将は、当然ですが関ケ原以前と、その決戦の場で功労が認められた方。
お国替えも頻繁に行われました。

加増された武将のランキングと石高の差!

以下のようです。

1位:結城秀康:49.8万石の加増

お国;下総、結城 → 越前・福井
石高:10.1万石 → 59.9万石 :49.8万石の加増

2位:松平忠吉:42万石の加増

お国:武蔵・忍 → 尾張清洲
石高:10万石 → 52万石 :42万石の加増

3位:蒲生秀行:42万石の加増

お国:下野・宇都宮 → 陸奥・会津
石高:18万石 → 60万石 :42万石の加増

4位:池田輝政:33.8万石の加増

お国:三河・吉田 → 播磨・姫路
石高:18.2万石 → 52万石 :33.8万石の加増

5位:前田利長:36万石の加増

お国:加賀・金沢 → 加賀・金沢
石高:83.5万石 → 119.5万石 :36万石の加増

6位:黒田長政:34.3万石の加増

お国:備前・中津 → 筑前・福岡
石高:18万石 → 52.3万石 :34.3万石の加増

7位:加藤清正:32万石の加増

お国:肥後熊本 → 肥後・熊本
石高:19.5万石 → 51.5万石 :32万石の加増

8位:福島正則:29.8万石の加増

お国:尾張・清洲 → 安芸・備後
石高:20万石 → 49.8万石 :29.8万石の加増

と・・ここまでがランキングです。
これまでに大名だった方の、加増のランキングです。
しかし、徳川家康公の将校だった方、例えば

1:井伊直政:彦根藩30万石
2;本田忠勝:伊勢国桑名10万石
3:奥平信昌上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増

他にも、5~10万石程度の大名取り立てや、加増があったようです。
「井伊直政」
は別格でした。

井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!

井伊の赤備えは、甲州軍団の引継ぎでしたから、徳川四天王としても、全く期待どおりの働きでした。
しかも関ケ原では、直参旗本での先陣。
「われらが戦でござる」
は名言!

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関ケ原の戦いで減封したランキングベスト10位!

 

関ケ原古戦場後の写真

此方は、減封された、負けた方の敗者のお仕置き。
敗者ですから、元はお取りつぶしでも、全く文句は言えない立場。
しかしながら、減封で許された武将も。
多くは改易です。

減封された武将のランキングと石高の差!

減封と書きましたが、ほとんどの武将は負けたので「改易」で、領地は没収です。
以下のような内容でした。

1位:上杉景勝:減封:-90万石

お国:陸奥会津 → 出羽米沢
石高:120万石 → 30万石 :-90万石

2位:毛利輝元:減封:-82.2万石

お国:安芸・広島 → 長門・萩
石高:112万石 → 29.8万石 :-82.2万石

3位:宇喜田秀家:改易:-57.4万石

お国:備前岡山 → 無し
石高:57.4万石 → 0万石 :-57.4万石

4位:佐竹義宣:減封:-34万石

お国:常陸水戸 → 出羽久保田
石高:54.5万石 → 20.5万石 :-34万石

5位:長曾我部盛親:改易:-22.2万石

お国:土佐浦戸 → 改易:-22.2万石
石高:22.2万石 → 0万石 :-22.2万石

6位:青木一矩::改易:-21万石

お国:越前北庄 → 無し
石高:21万石 → 0万石 :-21万石

7位:小西行長:改易:-20万石

お国:肥後宇土 → 無し
石高:20万石 → 0万石 :-20万石

7位:増田長盛:改易:-20万石

お国:大和郡 → 無し
石高:20万石 → 0万石 :-20万石

9位:石田三成:改易:-19.4万石

お国:近江佐和山 → 無し
石高:19.4万石 → 0万石 :-19.4万石

10位:毛利秀元:改易:-20万石

お国:周防山口 → 無し
石高:20万石 → 0万石 :-20万石
* 毛利秀元はそののち毛利輝元の所領内で5万石を与えられた。

と、こんな感じ。
残った武将は

1:毛利輝元
2:上杉景勝
3:佐竹義宣
4:毛利秀元

のみ。
毛利秀元は、注釈の通りです。
この中で、よくぞ・・というのは「上杉景勝」ですね。
直接の、槍合わせはなくても、「直江状」がきっかけで、上杉討伐に向かったわけですから。
しかも、一触即発の状態まで。

しかし、タイミングを考えたら、一番の功労者は「上杉景勝」かもしれません。
大義名分が立つ「きっかけ」を作ってくれたわけですから。

他は、内通で事なきを得たようなもの。
いわば、潔さがないですね。

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伊達政宗公の、正室から側室と子供たちの処遇をまとめてみました。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

伊達政宗公は、関ケ原の功績では100万石の、お墨付きでしたが、作戦の不際により・・でしたね。

伊達政宗の関ケ原以前と以後の石高と兵力動員数は?生涯年表で表示!

しかし、奥州仙台に伊達62万石は、誇れる歴史です。

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関ケ原の戦いのきっかけ(起こった理由)と勝因!感想とまとめ

 

関ケ原の戦いのきっかけは、私個人は上洛を拒み続けて、最後に
「直江書状」
をかいた「直江兼続」だと思います。
勿論、上杉景勝の指示もあるでしょうし、上杉の面目と決意が当然あってのこと。

しかし、これは裏を返せば、徳川家康公の、天下取りの一番の功労者と、言えるかもしれませんね。
私はそう思います。
なので、上杉家は残ったのだと、個人的には思います。

しかし、これで上杉討伐の、大義名分が立ち、東軍西軍もこれは勢力図が、しっかりと見えたわけです。
徳川家康公に、同行して関東に向かう武将と、残る武将とのいわば
「踏み絵」
みたいなものかと。

関西に残った武将は、石田方で豊臣恩顧の武将が大半。
総大将は「毛利輝元」を担ぎ上げたのですが、この方は私は、踊らされたようにしか見えないです。
さらに、徳川に内通の
「吉川広家」
は、関ケ原の現場にいるのですから、この方の策謀が勝敗を決めたようにも思います。
尤、それで毛利は維持されたのですから、良しでしょう。
のちの長州藩は、生き延びたわけです。

しかし、石高ですが約30万石まで減ったとありますが、実際はとんでもない石高だったのですね。
検地がいい加減だったようです。
幕末には、実質100万石程度はあったと・・ホントかな?(wikipedea情報)

関ケ原古戦場後の写真

関ケ原の戦いは天下分け目の現実!

現実の世界でも、「天下分け目の戦い」はあるんだな。
個人レベルに掘り下げたら、そうそうはありませんが、今日の工場監査は
「天下分け目」
の意味がある。
と言えば、監査が通れば新規の仕事が舞い込んで、会社は潤い、したがって自分ももしかしたら昇進し、給料もボーナスも上がる。

でも、そんなに天下分け目があるわけでもなし、頻繁にあったら疲れて仕方がないですし、それはもう日常で、天下分け目でも何でもありません。
スカスだ・・
この関ケ原には、人間の愛憎や、復習や裏切りの数々が、相当詰まっています。
お勧めはこちらの本。

司馬遼太郎の「関ケ原」です。
とても面白く、司馬遼太郎さんの分析の鋭さを感じる、そんな本です。
ぜひ、興味のある方は読んでみてください・

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関ケ原の歴史がよくわかる一冊です。
上・中・下巻の3冊です。
長い分、かなり楽しめます。

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徳川家康公は天下人。
石高の推移を、年表で見てみました。

徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で!幕府開始時は幾ら?

徳川家康公の正室と、側室の方の名前と、子供たちの名前と処遇です。

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

江戸時代から明治まで、どんな歴史だったかを、まとめてみました。

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*ヘッダーの写真は、一昨年鎌倉に行ったときに撮影した、明月院の裏庭の紅葉の写真です。

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