平清盛の家系図と正室と側室と子供のその後!したことの年表と最後!
平清盛の家系図を桓武平氏からの系図で。
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奢る平家も久しからずは名言ですね!
Contents
桓武平氏からの平清盛(平家)への系図!
「平氏」
は、平安時代前期の「氏族」で、天皇家の別れで四つの流派があります。
- ➀:桓武天皇(737年- 806年4月9日):桓武平氏
➁:仁明天皇(810年- 850年5月6日):仁明平氏
➂:文徳天皇(827年- 858年10月7日):文徳平氏
➃:光孝天皇(830年- 887年9月17日):光孝平氏
時代を入れておいたので、大体の年号がわかります。
平氏はなぜに「平」姓なのか?
諸説あるようですが、「桓武天皇」が、建設した
「平安京」
にちなんだ説が有力。
「其の名称は、平安京(京都市)の本訓タヒラより起る。蓋し桓武帝、此の都を建てられしにより、其の子孫、此の氏を賜ひしならん。」
(wikipediaより)
こんな記述があります。
確かに「平安京」から
「平」
を取った説は、信憑性がありそうですね。
桓武氏の系図から伊勢平氏の確立を見る!
平氏は4流派あっても、大きな勢いは
「桓武平氏」
です。
通常「平氏」と言えば、この流れを言います。
系図は以下。
この系図で見て、大きな転換は
「高望王」が「平姓」を受領して「平高望」となる。
ここが「平家」(平清盛)の元です。
平氏と平家は違う?どこが違うか系図で!
系図の「貞盛」の子の「維衡」(四男)より始まるのが
「伊勢平氏」
というグループ。
その中でも「正盛」の系統は
「六波羅流・六波羅家」
と言われる筋で、「平家」と呼ばれます。
その嫡流は「平清盛」に行き、「平家の政権」を樹立し、栄華を極めます。
しかし、後述しますが「壇ノ浦の戦い」で滅亡。
が・・「平家」の子孫は脈々と。
平清盛の正室と側室と子供子孫の家系図!
(wikipediaより引用)
「平清盛」
の正室と側室ですが、どうもはっきりとはわからないようです。
特に、この時代は「正室」側室という概念はなく、傍にいる女性のうち、一番身分の高い方が大一夫人。
子供は、その身分の高い方の子が「嫡男」(世継ぎ)とされたと。
*ここでは便宜上正室と側室として書いていきます。
平清盛の家系図から見る正室と側室と子供!
家系図は以下です。
この家系図は、ネット上の情報をもとに、私が作成しました。
「側室」の方は、どうもわからない方が、まだまだいたようですが、判明しないので、そのままにしました。
最低でも、この系図のように、正室交えて「5人」はいたようです。
正室と側室の出自と子供のその後はどうなった?
分かりやすいように、以下の表にしてみました・
正室 高階基章の娘 | 父の高階基章の官位は正六位相当の官職である右近衛将監で低かった。 |
重盛(長男) | 清盛の後を継ぐ。しかし、先に病没。 |
基盛(二男) | 24歳で早世 |
時子(正室:継室) | 平時信の娘:父の官位は正五位下・検非違使・兵部権大輔、贈正一位・左大臣。 |
宗盛(三男) | 39歳:壇ノ浦で捕虜になり後京都で最期を迎える |
知盛(四男) | 34歳で壇ノ浦で最期。 |
重衡(五男) | 29歳:一の谷で捕縛。その後紆余曲折あり木津川畔で最期 |
徳子(建礼門院) | 第80代「高倉天皇」の皇后「安徳天皇」の母。壇ノ浦で入水も助けられ「大原寂光院」で生涯送る。 |
常盤御前(側室) | 源義朝の側室、源義経の母 |
廊御方(ろうのおんかた) | これはどうも信頼性はどうかと。そういう話という事で。 |
厳島内侍冷泉局 | 御子姫君の母。懐妊で清盛が平盛俊に妻として下げ渡し。 |
御子姫君(七女) | 後白河法皇の後宮入り後まもなく没 |
母不明(側室) | 子供はいるのですが、母がわからないので不明にしておきます。 |
知度(とものり)(七男) | 倶利伽羅峠の戦い(木曽義仲との戦)で戦死(平家一門最初の戦死者) |
清房(八男) | 一の谷合戦で最期 |
盛子 | 摂政・近衛基実の正室(北政所) |
完子(六女) | 近衛基通の正室 |
名前不詳 | 「藤原 信隆」室 |
名前不詳 | 花山院兼雅室 |
名前不詳 | 冷泉隆房室(藤原隆房) |
養子 | |
清定 | 一の谷合戦で最期 |
都合
「8男8女」
になろうかと。
「平維俊」
このような名前も見えるのですが、不明なので除外しました。
しかし、この男子の子供たちは、みな非業の最後。
男系は途絶えたように見えます。
平家一門の子孫と言われる方のそうそうたる面々!
「平清盛」
の男系の子孫は、一の谷や壇ノ浦の合戦で、ほとんどが途絶えてしまいました。
ただ、家系図で見てわかるように
「女系」
は、つながっています。
特に藤原隆房(冷泉隆房室)は、「四条家」として発展し、現在まで続いています。
後の朝廷や、天皇家にも大きな血筋を残してる、そんな家柄です。
「平清盛」公
は平家。
他の平氏「坂東平氏」は、関東で多くの豪族です。
北条氏もそうですね。
しかし「平家」は、壇ノ浦でほぼ滅亡しました。(捉えられた方はそののち最後を迎えました)
平清盛がしたことの功績!重大なことベスト3はこれだ!
「平清盛」
がしたことで、画期的だったことを三つ挙げてみました。
平清盛は初めて武家社会を組織した!
その頃の時代は「貴族政治」。
そのきっかけは
- ➀:保元の乱
➁:平治の乱
保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の対立で起きた乱。
この時は、源氏の源義朝とともに後白河天皇方で勝利。
その後の平時の乱では、「源義朝」に勝利。
この時も、後白河天皇方。
宿敵の源氏は、この時に大敗し、許した義朝の子
「頼朝」
に足をすくわれるとは??
夢にも思ってもいなかったべな~~
でも、これで「平家」の世が誕生。
武家社会の入り口を作った功績は大。
貴族臭さが残っていても、武士の世を作った功績は、大だと思います。
平清盛は武士でありながら太政大臣に任命された!
「平家」
は天下人。
当然、乱を沈めて、権力を握れば出世はつきもの。
まさか武士が???
そんな扱いだったようにも、個人的に想像しますが、しかし「武力」は、権力に密着。
初めて武士が
「太政大臣」
に任命されたわけです。
「平清盛」
は武士であっても、「公家」になったんだな。
武士で公家になったのは「清盛公」が初めて。
平清盛は積極的に貿易を推進!
平安時代の貿易は主に「大宰府」だったようです。
しかし、大宰府が衰えて、唐の時代が終わると、貿易の主流は主に私的な商売。
当時の中国は南宋の時代で、南の方では建設ラッシュだったそうな。
そこで日本からの木材の輸出(貿易)に目を付けたのが、「清盛」の父の
「平忠盛」
その莫大な利益は、魅力的。
その資金をもとに、武力も財力も朝廷にも深く入り込んだと。
後を継いだ清盛は、瀬戸内海の神戸市付近に、港を整備。
「大和田の泊」
と言ったそうです。
ここを日宋貿易の拠点にして、大いに利益を上げたという事です。
武力だけでなく、経済感覚も優れていた武将だったという事ですね。
特に大きかったのが
「宋銭」
を大量に流通させたことで、貨幣経済が始まったこと。
これは画期的でした。
平清盛のしたこと生誕から最後まで年表で解説!
「平清盛」
公のしたことを年表で。
表にしてみました。
誕生 | 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、先発グレゴリオ暦1118年2月17日) | |
1129年1月6日 | 従五位下。1月24日、左兵衛佐。(12歳) | |
1131年1月5日 | 従五位上(14歳) | |
1135年1月5日 | 正五位下。8月21日、従四位下。(18歳) | |
1136年4月7日 | 中務大輔(19歳) | |
1140年11月14日 | 従四位上(23歳) | |
1146年2月1日 | 保元の乱【39歳】 | |
1159年12月9~26日 | 平治の乱(ほぼ政権を掌握)42歳 | |
1167年2月11日 | 従一位太政大臣。5月17日、太政大臣辞任。(50歳) | |
1168年2月11日 | 出家【51歳】 | |
1171年 | 徳子入内 | |
1177年 | 鹿ケ谷の陰謀(60歳)これを機に嫡男重盛が失脚 | |
1179年 | 治承三年の政変(62歳)後白河院制を停止した事件 | |
1180年4月22日 | 安徳天皇即位【63歳】 | |
同年4月 | 以仁王が平氏追討の令旨を発する | |
同年8月17日 | 頼朝挙兵 | |
1181年 | 薨去(享年64 / 満63歳没) |
表立っての戦は「保元の乱」と「平治の乱」の二つ程度。
勢いがあり過ぎて、歯向かう相手もいなかったかと。
そうも思います。
しかし、「源頼朝」の挙兵は、おそらくですが信じがたかったかと思います。
助けてやった恩義を・・そんな気分かと。
平清盛の最後と墓の場所!家紋を解説!
「平清盛」公の、無くなる原因の病気や、家紋や墓所について解説します。
時代は1000年ほど前ですから、真相はどうでしょうか?
平清盛公の最後!病気の原因は?
「平清盛」公の最後は、病気が原因のようですね。
諸説あるようですが、これまでは
「熱病」
で、「瘧」(マラリヤ:おこり)だと言われているようです。
しかし亡くなったのが2~3月事の事で、マラリヤのもとになる蚊はいなそうです。
ヤンで日程普度で亡くなったので、どうやら別の原因も言われてるようです。
当時の公家で「九条兼実」の日記(玉葉)では、2月27日に「頭痛を病む」という記述が。
なので、当時もあったのかな~~「インフルエンザ」とか。
もしくは、心疾患や脳の病気とか。
いずれ、亡くなるまで二5日間しかなかった。
となると、原題の病気では、限られそうな気がしますが、さて?
急性の病気であったことは確かですね。
平清盛公の墓所はどこだ?写真で解説!
能福寺の平相国廟が墓所という説。
清盛公が、なくなって、このお寺「能福寺」に、平相国廟が作られたとあります。
なので、ここで眠ってるのかと。
他もあるようですが、どうも信憑性がいまいちかと。
でも、ゆかりというか、言われの地は巡ってみるのもいいかもしれません。
- ➀:切戸 清盛塚 石造十三重塔
➁:六波羅蜜寺 平清盛塚
➂:祇王寺 平清盛の供養塔
➃:彦島の清盛塚
こんなに言われの地があります。
平清盛公の家紋は揚羽蝶紋!
驚きました。
蝶の文様なんですね。
この「蝶紋」は、平家が使い始めて、戦国時代の武将に人気があって、とても多く用いられたということです。
では、どんな紋様?
以下です。
これが家紋だったようですが、ちょっと定かではないです。
こう言う紋様も。
此方が、オーソドックスな「揚羽蝶紋」かと。
どちらかな~^とは思いますが、いずれ蝶の家紋だったようです。
驚きますね~~
「蝶紋」
は、平清盛公から始まったわけです。
てっきり、赤い旗かと思ってましたが、あれは旗印ですね。
平清盛と厳島神社の関係はなんだ?
「厳島神社」
は瀬戸内海。
しかも、「日宋貿易」の拠点が現在の神戸。
海上交通の、守り神としては、うってつけの存在でした。
しかし、「平清盛」公は、院から高野山の大塔を修理するよう言明!
何年もかかって終了した時、手を合わせていたら、老僧が近寄り
「次は厳島神社を修理しなさい!」
というお告げ!
清盛公は、それが弘法大師のお告げと、理解して厳島神社を信仰!
厳島神社は西暦593年に佐伯鞍職(さえきのくらもと)という方によって建立。
- ➀:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
➁:田心姫命(たごりひめのみこと)
➂:湍津姫命三柱(たぎつひめのみこと)
を祭ってる神社です。
当時の天皇は「推古天皇」の時代。
聖徳太子は、まだまだあとですよ~~~
清盛公誕生の、まだ500年近くも以前のお話。
考えてみると、日本の歴史ってすごいものがあるな~~と思います。
・・・・・・・・・
鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
「平重盛」
は清盛の嫡男。
人生をまとめてみました。
平重盛の家系図を平氏の系図で!妻と子孫のその後!生きていたら?
源義経と頼朝の関係など。
源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!
胴塚の写真など、紹介しました。
・・・・・・・・・
平清盛公の人生に思う事!感想とまとめ!
「平清盛」
公の、人生をざっとレビューしてみました。
偉大な方は、何事につけて恥じてのことが多数!
批判もあれば、賛辞もあれば何でもありですね。
でも、どの世界での現象でも、「初」というのは、立派!
そういう意味では、素晴らしい才能の持ち主だったんだと思います。
源氏の嫡流もぶっ飛ばして、しかしその温情があだになるとは、なんというめぐりあわせなんでしょうか?
しかも、その愛妾を側室に?
それもまた、ドラマでロマンだな~~とも思います。
それはそれでよしですね。
「平清盛」
公から何を学ぶか?
歴史は、私は人生の手本だと思っています。
さて?
・・・・・・・・・・
源頼朝の源氏の家系図と、妻や側室と子供のその後など解説。
源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!
鎌倉幕府成立に貢献した武将をまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
家系図から見ても、その相関がなかなか面白いですね。
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*ヘッダーの写真は、2月の塩釜神社の風景写真です。