上杉謙信の石高(領地)の推移を年表で!越後長尾氏の家系図解説!
上杉謙信公の領地と石高の推移を、年表で追いながら支配地域の領土を一覧にして最高石高を予想。 ・越後長尾氏の家系図で謙信公は何代目? |
映画「天と地と」での、川中島の合戦シーンは圧巻でした。
Contents
越後長尾氏の代々家系図(系図)!上杉謙信と景勝公の関係も一目で!
「上杉謙信」公
は、越後守護代「長尾為景」の4男として、誕生しました。
代々が、越後の守護職。
家系図(系図)は以下。
(*wikipedia等の情報を整理して作成)
大分、端折った部分がありますが、系図のみなら、これで十分かと。
上杉謙信の幼名や誕生日はいつだ!家族構成から!
(wikipediaより)
「この戦には大義があるか?」
そんな言葉が聞こえてきそうな、「上杉謙信」
清廉潔白で野心がなく、領地を広げる欲もなく正室も側室も持たず、我こそは「毘沙門天」の化身とまで言い放つ、そのオーラはまさに
「軍神」
と言った表現がピッタシ来る戦国武将です。
上杉謙信の誕生など基本情報!
以下のような基本情報です。
誕生 | 1530年(享禄3年)越後春日山城にて誕生(四男:次男とも・・) |
父 | 越後守護代:長尾為影 |
母 | 越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。 |
幼名 | 虎千代:庚寅年生まれのために名づけられた。 |
当時の越後は内乱状態。
- 1:三条(府内)長尾家
2:古志長尾家
3:田長尾家
の3家で、越後の守護代を争っていました。
上杉謙信は、1番の三条長尾家(代々越後守護職)の出身になります。
越後守護代として国主までの道のり!
以下のような、大まかな経緯。
1536年 | 6歳:兄春景が家督相続。この年春日山城下の「林泉寺」に入門。 |
父から疎まれていたとも。 | |
1542年 | 12歳:父為影病没。 |
1543年 | 13歳:還俗したのち、元服し「景虎」と名乗った。同時に「栃尾城主」になる。 |
1544年 | 初陣:栃尾城の戦いで謀反軍を鎮圧 |
1548年 | 越後守護上杉定美の仲介により家督を春景より譲られる。 |
春日山に入り城主。 | |
1550年 | 守護代「上杉定美」が死去。その後継に将軍足利義輝より正式に「越後守護代」として「越後国主」に任じられる。 |
1551年 | 最後の反乱「長尾政景」の乱を制し、越後を平定。 |
姉の存在 | 長尾政景は謙信公の姉の「仙桃院」の夫であることから許される。 |
その仙桃院と政景の子が謙信の後を継いだ「上杉景勝」なんだな。
さて・・名実ともに越後の虎になった「上杉謙信」(後に)の活躍はここから。
さらに名前が変わる経緯があるんだな~~
1561年 | 上杉正虎(まさとら) |
1561年 | 上杉輝虎(てるとら) |
1570年 | 法号「不識庵謙信」 |
と名前を変えていきました。
最終的に1570年に「上杉謙信」が誕生します。
上杉謙信の合戦年表と支配地域!領地の増え方を石高含み年表にしてみた!
(wikipediaより)
これ全部書いたら大変な量になるので、領地が関係する分のみにします。
それと川中島の合戦の年表は重要なので、それと注目の歴史的な合戦も上げてみます。
上杉謙信公の歴史上の合戦時の勝利からひも解く石高!
概ね以下のようです。
1551年 | 家督相続後越後守護代:越後40万石 |
1562年 | 越中出陣:越中38万石のうちに侵攻 |
しかし、ここが越中攻防の短緒になったようですが、完全支配には至らず。 | |
1563~1564年 | 上野、下総、常陸、武蔵の国に侵攻も、いずれも応援の意味合いが強い出陣。 |
1571年~1572年 | 越中攻防での一向一揆との戦いがクライマックス。 |
1573年 | 加賀まで攻め込みこれにて越中の国を制圧:越中38万石:加賀35万石 |
1577年 | 能登の国を平定:能登20万石 |
1577年 | 「手取川の戦い」で勝利 |
1578年 | 3月9日に倒れ3月13日に死去。【4月19日:新暦】 |
上の表での、関東への出兵は、直轄にはなりえないので、ここは領地としてはパスします。
それぞれの豪族氏族が乱立し、どうもいいように上杉謙信公は利用された??
そんなイメージが強いな~~という印象です。
一般的には、上杉謙信の圧勝。
しかしこの年1578年に、上洛も間近という3月9日に倒れ3月13日に死去。
「49歳」
なんだな~~
織田信長公も「49歳」です。
まるで因縁めいたものを感じますね。
上杉謙信公の領地の石高最大は幾らだ?
凡そ以下と考えられると思います。
越後 | 40万石 |
越中 | 38万石 |
能登 | 20万石 |
加賀 | 35万石 |
総計 | 133万石 |
だと推定します。
この石高には、諸説あります。
このほかに
- 上野50万石
武蔵66万石
も追加する向きもあるようですが、私の考えでは、いろいろ調べるうちに、ここは関東管領職の義を重んじた戦い。
支配するつもりはなかった?
そんな気がします。
「上杉憲政」
より、関東管領職を相続した手前、関東の安定は自分の責務と思っていたのでは?
そう思っています。
おびやかす、北条と武田は常に敵だったんでしょうな~~
なので、上野や常陸や武蔵、下野などは除外しました。
ただ、当時の越後は、上は山形県内の庄内地方まで伺い、東は会津の領内まで入り込んでいましたから、越後と言っても上野の一部や、奥信濃の一部も少しあったと思います。
上杉謙信公の歴史上の合戦時の兵力動員数からの逆算!
合戦時の兵力動員から石高を逆算してみます。
1561年:第四次川中島の戦い:動員兵力:1万8千。
石高割:72万石
*1万石:250人で計算
になります。
この時点で越中(一部あり)や加賀や、能登はありません。
越後のみですね。
しかし、越後一国でも上のように山形や会津に入り込んでるため、そのくらいの石高があったと推察します。
育ての親ともいうべく「宇佐美駿河守定満」の枇杷島は、12万石とも評されていたようですから、結構な石高だったんだと思います。
さらに、その時は奥信濃の村上義清なども従属していました。
その分も加算ですね。
兵力の動員数が、1571年の越中進軍時に「2万8千」とあるので、単純に石高割だと
「112万石」
になります。
なので、その後完全平定の下記領土を含めて、上の数字に当てはめて、
- 越中38万石
能登20万石
の58万石を足すと「170万石」になります。
第四次川中島の戦いから、領地は減らしてませんからこの
「170万石」
を実効支配領地と、私は考えますが、皆さんは如何ですか~~
え??
加賀は?
と言われそうですが、手取川の戦いの年に、上洛の道筋を整えようと、進軍したようですので、支配したのはわずか1年にも満たないようです。
なので除外しました。
*1万石:250人の兵力動員と計算。
参考までの、江戸時代のマップですが、越後の国の地図です。
かなり他県に食い込んでいるのが、わかると思います。
上杉謙信公の実効支配領地の結論と感想!
私は調べた結論は以下です。
名目最大石高 | 133万石 |
実効支配石高 | 170万石 |
ま~~この間かと思います。
兵力逆算の「実効支配石高」は正しいように思います。
戦国の時代は、いったん領地を支配しても、「上杉謙信公」のように引けば、即奪還されて、また戻って打ち負かして、撤退後にまた取られて・・
なかなか、安定しないのが常道のようです。
特に、「上杉謙信公」の場合は、上野や常陸や武蔵などの関東管領職担当地域ですね~~
これが、応援しまくりで、ここ本当に領地なの?
って思うのですが、結局元々の支配豪族を、武田や北条から救うための援軍だったような気がします。
なので、ここは除外しました。
兵力の動員数からの石高逆算は、非常に有効だと思います。
兵力=国力
です。
何人動員できるかが、その実効支配している領地からの、人も含めての税金ですから。
*1万石=250人
で兵力動員数を逆算しました。
これはこの時代の一般的な数字と言われています。
注:上の数字は、私は調べた結果なので、それなりの参考地です。
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謙信公を引き継いだのが
「景勝公」
です。
石高の推移や関ケ原を境にした直江状など解説しました。
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上杉謙信公の歴史に残る川中島の決戦!
川中島の合戦は、以下です。
5回も同じ場所で武田軍と競り合ったんですね。
ただし、最大の合戦は1561年の第四次合戦です。
これは名勝負!
キツツキ戦法と言われましたが、まさかの上杉謙信公に、読まれていた。
その時の場面・
「直江!」
「は・御屋形様ここに」
「あれをなんと見る?」
信玄公の砦から、煙が‥
「は??なんとも」
「馬鹿者、あれは飯を炊いているのだ‥信玄今宵動くぞ!八幡原に全軍移動する!」
何か、こんな様子だったような‥:これはNHKの大河ドラマのシーン・・
- 1552年:第一次川中島の戦い
1554年:第二次川中島の戦い
1557年:第三次川中島の戦い
1561年:第四次川中島の戦い
1564年:第五次川中島の戦い
映画「天と地と」の合戦シーンも、この第四次が主なメインシーンです。
津川雅彦さん‥名優だな~~
上杉謙信の旗の「毘」の文字の意味は?
上杉謙信の旗は黒字に白抜きの
「毘」
の一文字。
そして大将旗は白地に黒抜きの
「毘」
の一文字。
映画「天と地」では、上杉謙信公のわきには、ぴったりとこの白地に黒抜きの
「毘」
の旗持ちが、帯同しています。(大将の目印なんでしょうね~~)
そして、軍団は黒地に白抜きの「毘」の旗指物。
騎馬隊の大軍団はまさに圧巻!
車掛かりの陣は神がかっています。
何度もみましたが、素晴らしい映画ですね。
川中島の武田信玄との決戦は、真の名勝負です。
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・・・・・・・・・・
上杉謙信の龍の文字の意味は?
「龍」
の旗と、陣羽織の背にはもちろん
「龍」
の文字。
この旗は
「懸り乱れ龍の旗」
と言います。
しかし、この龍の文字は写真のように、丸みがかった文字になって居ます。
この龍は、実は
「不動明王」
なんだそうな。
不動明王は動物で現すと龍になり、物では両刃の意味があるんだそうな。
仏像には、倶梨伽羅剣(くりからけん)を持っており、その剣に「龍」が巻き付いています。
これは気が付きませんでした。
そして、この龍が「仏敵」を倒すといわれてる由来なんだそうです。
これは、すごいことに気が付いた、まさに仏門でないと気が付かないんだべな~~と、感心しきりです。
旗はこれ。
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この龍の文字の丸みが微妙に感じます。
上杉謙信の紺地日の丸の旗の意味を考えてみた!
もう一つの旗はこれ。
「紺地日の丸の旗」
です。
これは「天賜の御旗」ともいうようですね。
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上杉謙信公の日の丸御旗は後奈良天皇(室町時代)より賜ったものといいます。
馬印は紺地に日ノ丸の大扇。
上杉謙信の兜と鎧の写真!現実もこうだったのかな?
いろんな鎧があるようですが、基本仏門に入ったので、華々しいのはどうなのかな~~身に着けていたのかな~~って思います。
此方は銅像の写真ですが、これが当たってるのでは?
天と地とでは、鎧をまとっています。
とても決まってますね。
上杉謙信公の支配地域(領地)の年表のまとめと感想!
上杉謙信公の、支配地域の石高を年表形式で、まとめてみました。
上杉謙信公は、60数回の戦で負けはたったの2回と言われているようですね。
でも諸説あるようですが、いずれ引き分けでも負けなかったことは事実のようですね。
まさに神がかっているかと。
毘沙門天と、不動明王を相手にしたら、誰も戦はしたくはないでしょうね~~
私だったら、やっべ~~って・・さっさと逃げます(笑
この戦国の時代には、城は取って取られて、まして支配地域以外なら、兵を引いたらまた支配されて・・この繰り返しのようで、なかなか安定した領地の増加は、むずかしったようですね。
そんな中でも、ポイントになる出陣と、大きく領地を広げたポイントを年表にしてみました。
上でも紹介しましたが、支配地域は解釈もいろいろあろうかと思います。
一時的な支配もあると思いますが、それはカットしました。(特に関東の部分)
領地の石高と、兵力の動員数から割り出した石高も参考になるかと思います。
上に張った、越後の地図では、越後自体の面積が結構今とは違っているのがわかると思います。
その辺も参考になるかと。
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戦国の英雄は、生まれる時期でこうも処遇が違うものなんだな~~が時間です。
*本記事は、私が調べて内容をまとめてみたものです。
いろんな意見もあろうかと思いますが、兵力動員数から見た考え方は私の独断です。
この時期は、取って取られて・・戦国の時代は不確定なので、非常に難しかったです。
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*ヘッダーの写真は、私の地元宮城県仙台市の、仙台城址公園の写真です。
右側の銅像は伊達政宗公です。
この城は堅固だったでしょうね~~