源頼朝は源氏宗家の家系!
・源氏の系図から源頼朝の位置を確認。 |
頼朝:三男 | 鎌倉幕府開府征夷大将軍 |
義門:四男 | 早世したとされる |
希義:五男 | 平家により討ち取られる |
坊門姫:九条良経室 | 嫡男高能は頼朝に重用 |
頼朝は三男ですが、正室の子供なので「跡目相続」は優先です。
源義朝の側室とその子供たちとその後!
「源義朝」には、側室が4人いました。
一番有名なのは、やはり「義経」の母の「常盤午前」かと。
以下、一覧の表にしてみました。
常盤午前:側室 | 九条院(藤原呈子)の雑仕女とのみ記載 |
今若(後の阿野全成):七男 | 頼家の命を受けた八田知家によって誅殺:享年51歳 |
乙若(後の義円:八男 | 家の家人・高橋盛綱と交戦の末に討ち取られた:享年27歳 |
牛若(後の源義経):九男 | 衣川館で自刃:享年31歳 |
三浦義明の娘:側室 | |
源義平:長男 | 平清盛暗殺に失敗して命を落とす |
波多野義通の妹:側室 | |
源之朝長:次男 | 平治の乱のケガがもとで命を落とす |
遊女:側室 | |
範頼:六男 | 頼朝に謀反の嫌疑で誅〇 |
他・不明:子は女子 | 母親定かでない |
合計で、源義朝の子は
「九男二女」
になります。
しかし、遊女まで側室とはね~~って、そういう時代背景のようです。
源頼朝の家系図は?正室と側室と子供とその後!
「源頼朝」
は源義朝の、三男ですが正室「由良午前」の子で、正室から見たら長男。
源氏の世継ぎは「頼朝」に託されました。
源頼朝の正室と側室と子供は何人?
家系図は以下。
「源頼朝」
の正室は「北条政子」です。
側室は
1:亀の前
2:大進局
3:利根局
4:最初の妻:八重姫
ですね。
しかし、よくわからない部分もありそうです・
子は「四男二女」です。
以下紹介します。
源頼朝の正室は北条政子!子供の名前とその後!
正室は気性激しいと評判の
「北条政子」
恋愛結婚です。
子は二男二女。
北条政子:正室 | |
頼家:長男 | 鎌倉二代将軍:修善寺に流され暗殺:享年23歳 |
実朝:次男 | 鎌倉3代将軍:頼家の次男「公暁」により暗殺 |
大妃:長女 | 源義高と婚姻も結婚せずに20歳で他界 |
三幡:次女 | 病で14歳で死去 |
どうも、子供たちは悲劇ですね。
源頼朝の側室と子供の名前とその後!
源頼朝には側室が、最初の妻を含めて4人いました。
それぞれを、表の一覧にして紹介します。
八重姫:最初の妻 | 頼朝の監視役の伊東祐親の三女 |
千鶴御前:子 | 伊東祐親により不遇の最後 |
亀の前:側室 | 良橋太郎入道の娘 |
大進の局:側室 | 鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘 |
貞暁:次男 | 出家:46歳で病死 |
利根局:側室 | 波多野経家の三女 |
大友能直:子(諸説あり) | 頼朝の大のお気に入り:大友氏の興隆の因 |
以下、表の内容を解説します。
1:八重姫:最初の妻:
頼朝との仲を平氏に漏れるのを、危惧し父、伊東祐親により江間の小四郎に嫁がせたとあります。
子:千鶴御前:伊東祐親により不遇の最後
2:亀の前:良橋太郎入道の娘
もしかして頼朝が最も愛した女性かも。
「政子」の嫉妬を一身に受けた女性。
とてもかわいそうです。
最後はどうなったか不明。
3:大進の局:鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西の娘:のちに出家して禅尼
子:貞暁:次男:出家:46歳で病死
4:利根局:波多野経家の三女
子:大友能直:頼朝の大のお気に入り:大友氏の興隆の因
これは諸説あるようです。
しかし大友氏の系図では「大友能直」を、頼朝の庶子と記載されています。
利根局は近藤能成(近藤太能成)の妻。
一説には、頼朝の子???
疑わしきは、載せておきましたが、これはロマンという事で。
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側室、正室はこちらにまとめてみました。
島津家の祖は鎌倉殿!源頼朝の女性問題!政子が怒る女癖と御落胤説!
昔の方は、旺盛だったんですな~~
島津氏の祖も、頼朝公に由来なんですね~~
これは知りませんでした。
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源頼朝のしたこと!征夷大将軍までの道のり!
(2020年1月管理人撮影)
以下解説します。
久安3年4月8日(1147年5月9日) | 誕生 |
平治元年(1159年) | 13歳:右兵衛権佐へ任ぜられる |
平治の乱 | 父義朝の大敗で、東国へ |
永暦元年(1160年)2月9日 | 頼朝は近江国で捕えられ六波羅へ |
みな極刑と思いきや清盛の継母の「池禅尼」の助言で、助命嘆願なる。 | |
同年3月11日 | 伊豆国へと流刑:蛭ヶ小島(ひるがこじま)かと。 |
治承4年(1180年) | 以仁王が平家追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発布 |
治承4年(1180年)8月17日 | 伊豆国目代・山木兼隆を打ち取る |
治承4年(1180年)8月23日 | 石橋山の戦いで敗走 |
治承4年(1180年)10月6日 | 父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ |
同年10月20日 | 富士川の戦いで勝利:のちに異母弟の「義経」が参陣 |
治承4年(1180年) | 各地の源氏、平氏が挙兵して大混乱状態 |
養和元年(1181年)閏2月4日 | 平清盛がこの世を去る |
養和元年(1181年)7月頃 | 後白河法皇に平家と和睦の書状も平家が拒否 |
養和元年(1181年)8月 | 嫡男の源頼家誕生 |
寿永2年(1183年)2月 | 野木宮合戦に勝利し坂東を制覇する |
御家人の所領の保証、敵方の没収所領の給付を行い、「本領安堵」「新恩給付を行い、坂東節の支持を集める。 | |
寿永3年(1184年)1月20日 | 源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲を粟津の戦いで討つ |
同年3月27日 | 除目で正四位下へ叙位 |
元暦元年(1184年)2月7日 | 摂津国一ノ谷の戦いで勝利 |
文治元年(1185年)1月19日 | 屋島の戦いで勝利 |
3月24日 | 壇ノ浦の戦いに勝利:平家の滅亡 |
文治元年(1185年)4月 | 梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く |
文治3年(1187年)10月 | 藤原秀衡が没 |
文治4年(1188年)2月 | 義経の奥州潜伏が判明 |
文治5年(1189年)閏4月30日 | 泰衡は衣川館に住む義経を襲撃し、義経は自害 |
7月19日 | 1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討 |
9月3日 | 逃亡の泰衡を追い北上。9月3日泰衡討たれる。 |
奥州合戦の終了。 | |
文治5年(1189年)11月3日 | 朝廷より按察使への任官を打診されるが辞退。 |
建久元年(1190年)10月3日 | 鎌倉を立ち上洛11月7日入京 |
建久3年(1192年)7月12日 | 征夷大将軍に任じられる。 |
建久10年1月13日(1199年2月9日) | 没:53歳(満51歳) |
ここまでが主な、年表です。
詳しく書けば、もっとあるのですが、この程度で。
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鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
北条義時と、鎌倉北条氏の家系図!
執権職とは?
北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!
この方を抜きでは、鎌倉殿は語れません。
平家にあらずば・・
平清盛の家系図と正室と側室と子供のその後!したことの年表と最後!
多くの偉業を成し遂げた方ですね。
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征夷大将軍任官後の鎌倉幕府のしたこと!本格的な武士の世!
(2020年1月管理人撮影)
「征夷大将軍」
についた、「源頼朝」は直ちに、鎌倉幕府を開府。
どんどん、新しい制度を立案していきます。
ここに、初めての武士による、秩序ある日本国の支配が、はじまったんだと思う。
主な功績は以下。
➀ | 朝廷から政治の実権を奪う |
➁ | 各国に一人守護を置く(治安維持) |
➂ | 各国に一人地頭を置く(年貢の取り立て) |
➃ | 御家人統制の「侍所」設置 |
➄ | 政務と財政事務の「政所」設置 |
➅ | 裁判事務担当「問注所」設置 |
➆ | 封建制度を確立:所領安堵、御恩と奉公 |
➇ | 源氏宗家を名乗り源氏を淘汰する:数多い源氏を整理した。 |
そのほかに、自分が全てやらなければ・・そんな独裁者ではなかったようです。
部下を信頼して、戦も部下に任せて、勝ってきました。
源氏の宝剣は「髭切」というらしい。
今どうなってるのかな~~諸説あるようです。
守護と地頭配置は画期的だった!
「源頼朝」
の行った、鎌倉幕府の開府で、最も大きかったのがこの
「守護・地頭」
だったような気がします。
これまでは朝廷が牛耳っていた、地方の任官権と、年貢を徴収する権限を得たのですから。
政の権限を、武士に移行することが、着々と進行していくんだな。
のちの「承久の乱」の勝敗によって、それは決定的になりますが、初代将軍の功績は、大きなものがあったと。
源頼朝の家系図と鎌倉幕府の意義の感想とまとめ!
(2020年1月管理人撮影)
「源頼朝」
の行った、最大の功績はどちらとも言い難いですが
- 1:平家の滅亡
2:鎌倉幕府開府
この二つかと。
もし、「平清盛」が、平治の乱の時に「池禅尼」の助命を受け入れていなければ、世の中はどうなっていたかな~~など。
もしかしたら、「義経」になっていた?
さて?
「源頼朝」は恐ろしく、切れ味が鋭い方だったことは、間違いないようです。
部下には、任せることは任せるが、賞罰はかなり厳しい方に思います。
当時の勢力図から言って、源氏もかなりの方が名乗っていて、系譜から言えば、どっちもどっちの状況でしょうが、しかし源氏の嫡流と言えば
「八幡太郎義家」
からの系図が、本流ですね。
「髭切」
を持っていますから。
源氏の「宗家」を名乗り、傍流をまとめ上げた功績も、とても大きいと思います。
それから何気に「三権分立」らしい規則も。
この辺が、独裁者では政治は取れないことを、朝廷を見てわかっていたのかもしれません。
いずれ、ここを境に、武士が支配する世の中にい変わっていったことは、疑いのないことかと。
「徳川家康公」
も、江戸幕府開府に当たっては、「鎌倉幕府」を参考にしたとあるようです。
が・・なんで早く逝ってしまうかな~~
しかも、源氏の宗家が、いとも簡単に絶えてしまう。
人生ですな~~
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北条義時の、正室と側室と子供とその後。
その後の処遇は、ちょっと気にかかりました。
北条義時の正室と側室と子供の名前と何人いる?その後の処遇を解説!
木曽義仲の源氏の系図と活躍を年表で。
子孫やその子のその後。戦国時代の木曽氏は末裔か?
木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!
三浦義村は、鎌倉幕府では重要人物に上り詰めていきます。
三浦義村の家系図と鎌倉殿や北条義時との関係と最後!子や嫁その後!
家系図などまとめてみました。
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*ヘッダーの写真は、昨年の1月に鶴岡八幡宮に行った時の写真です。
記事内の数枚の写真も、その時の写真です。