清和源氏とは? 清和天皇の皇子や諸王を祖とする、源氏氏族の総称をいいます。
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1 | 嵯峨源氏 |
2 | 仁明源氏 |
3 | 文徳源氏 |
4 | 清和源氏 |
5 | 陽成源氏 |
6 | 光孝源氏 |
7 | 宇多源氏 |
8 | 醍醐源氏 |
9 | 村上源氏 |
10 | 冷泉源氏 |
11 | 花山源氏 |
12 | 三条源氏 |
13 | 後三条源氏 |
14 | 後白河源氏 |
15 | 順徳源氏 |
16 | 後嵯峨源氏 |
17 | 後深草源氏 |
18 | 後醍醐源氏 |
19 | 正親町源氏 |
上の1~19の名前は、天皇の名前で、嵯峨天皇の流れの源氏もあれば、清和天皇の源氏もあります。
当時の天皇の子供、要は皇子や皇孫が、臣籍降下して「源(みなもと)」の姓を受けて、簡単に言えば武士になったわけです。
姓(カバネ)は朝臣(源朝臣(みなもとのあそん))と称します。
朝臣なので、朝廷の配下ですね。
全部で、21の流派があると言います。
源氏と言えば清和源氏の理由は?
これだけ多くの「源氏」を輩出しても、有名なのはどうしても
「清和源氏」
です。
他の源氏は、多くの内紛を抱えて、自滅するか吸収されるかしたようですね・・結果的には。
清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を名乗ったとあります。
その中でも、第六皇子貞純親王の子・「経基王(源経基)」の子孫が著しく繁栄しました。
(wikipediaより)
源経基の子の「満仲」が「多田源氏」として摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)に本拠を構えました。
地名を取って「多田源氏」と言われます。
ここで大きく流れが変わります。
満仲:父 | 源経基の子 |
長男 | 源頼光:摂津国に拠点(摂津源氏) |
次男 | 源頼親:大和国宇野(現奈良県)を本拠地(大和源氏) |
三男 | 源頼信:河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)を本拠(河内源氏) |
この三つに分かれます。
上の家系図を参照にしてください。
さて・・その後、その三人の源氏はどうなったのか?
*経基王について、貞純親王の兄陽成天皇の子・元平親王の子ではないかという、推測もあるようですが、ここでは従来の節で紹介いたします。
長男・源頼光の摂津源氏の家系図!
「源満仲」
の長男で、そのまま摂津の国を継承していくのですが、多田源氏とも呼ばれます。
(wikipediaより)
ここで注目は「麒麟が来る」で、美濃の土岐氏が出てきますが、「明智光秀」も源氏の傍流。
此方の系図なんですな~~納得です。
最後は、「行綱」で終わっているのですが、源平合戦では活躍したのですが、密告が疑われて鎌倉将軍「源頼朝」の怒りを買い、多田の庄の所領を没収されています。
次男・源頼親の大和源氏の家系図!
「源満仲」
の次男で、「源頼親」の大和源氏の家系図です。
大和国宇野(現奈良県)を本拠地にしていました。
(wikipediaより)
上の家系図によります。
「頼親」
は、朝廷より大和の国を国司となり、現奈良県で勢力を拡大して、いましたが、興福寺と対立して武力衝突し、その罪で流罪となったとあります。
お寺さんの権威って強かったんですね~~
しかし、その後一族は大和一円を支配。
が‥徐々にに衰退し、地方豪族でもまとまりを失い、分散したようです。
三男・源頼信の河内源氏の家系図を解説!
「源満仲」
の三男の「源頼信」の家系図です。
此方はのちに、日本の歴史を作っていく存在です。
(wikipediaより)
右が切れてるので追加で「義広」に右側です。
(wikipediaより)
此方の名前を見ると、その栄華が理解できると思います。
何せ、有名な
「八幡太郎義家」
がいます。
その子「義忠」孫が「為義」です。
「義朝」との、親子での争いでは悲劇でしたね~~
その子が、鎌倉殿の「源頼朝」です。
ここで極まった感じがします。
しかも、源氏の棟梁という「絶対権力」を握った「頼朝」は、源氏に対しても、大幅な粛清を実施。(これはまた後で)
しかし、一流の源氏の嫡流である、宗家も「実朝」で途絶えてしまいます。
しかし、ここには「新田義貞」の新田氏や、足利将軍の足利氏も入っています。
嫡流でなくとも、延々と地脈は受け継がれるんだな。
源氏の傍流で戦国時代の有名武将の家系図!
嫡流ではなくても、傍流でも反映して地方豪族から一大大名になった、戦国大名になった武将も多くいます。
やはり、「河内源氏」の流れを汲んでる方多いですね。
上の家系図での、流れを見て、その先の家系図です。
源義光流の家系図!
源義光流は「八幡太郎義家」と兄弟。
頼義の三男になります。
(wikipediaより)
此方の家系図には、多くのなじみの武将の祖先が入っています。
「甲斐源氏」の武田氏。
佐竹氏や小笠原氏。
武田氏は、この流れだったんですね~~理解しました。
源頼清流の家系図!
「源頼清」
は義家や、義光から見たら、おじさん。
2代源氏嫡流「頼義」と兄弟で、初代の「頼信」の次男です。
此方の流れも、ある程度は繁栄したんですね。
(wikipediaより)
信濃の「村上氏」がこの流れにいます。
伊予村上氏もここです。
信濃村上氏は、武田信玄に激しく抵抗しました。
源満政流と源満快流の家系図!
最後の家系図は
- 1:源満政流
2:源満快流
の家系図です。
上の図で、多田源氏の「満仲」の兄弟です。
経基王(源経基)の子で満政は次男、満快は五男になります。
河内源氏の陰に隠れています。
反映するというのは、やはり難しいことなんだな~~と実感。
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鎌倉幕府成立に貢献した武将をまとめてみました。
この時代のキャストは、のちの有名人が多いですね。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
武田信玄の祖。
甲斐源氏の、武田氏の祖です。
武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!
後の名将を輩出する名門。
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源氏の系図で見た有名武将の流れの先祖は?
ここで、有名武将は、どこの源氏の流れに入っているか、私の独断で入れてみました。
以下のようです。
摂津源氏
- 1:太田道灌:江戸城建築で有名
源国房流
- 1:土岐氏
2:明智光秀
3:馬場信春
河内源氏嫡流
- 1:源義家
2:源為義
3:源頼朝
4:源義仲
源頼清流
- 1:村上義清
源義光流
- 1:佐竹氏
2:武田信吉(甲斐武田氏)
3:南部光行
源義国流
- 1;新田義貞(新田氏)
2:足利尊氏(足利氏)
3:里見義俊
4:畠山義純
私が好きな武将を、ピックアップしてみました。
有名どころはやはり甲斐武田氏と足利氏や新田氏。
大きな歴史を作ってきました。
源頼朝は鎌倉幕府で源氏の棟梁として改革を断行した!
多くの源氏が、当時は乱立していたことは、想像に難くないです。
何せ、冒頭に書いたような21の流派があるのですから。
どうしてこうなったんでしょうか?
やはり、お召し抱えが、いくら皇子と言えども、そうそう簡単ではない事情があったんだべな~~~と。
それと、空いてる土地があれば、そこへ支配する国人として、任官させる・・そんな思惑もあったんだと思います。
しかし、武家と朝廷の立場が逆転した、「鎌倉幕府」では、それもまかりならんわけです。
そこで、源氏の嫡流としての棟梁の「源頼朝」は大改革を断行したんだな。
- 1:家人の自由任官禁止(義経の例)
2:源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占権
3:多田源氏の多田行綱を多田荘から追放し、その家人を御家人に編入
4:功績のあった者のみに源姓使用を許す門葉として遇する
5:上記以外は源氏の一門と言えども「源姓」の使用を禁止
日本全国で、源姓を名乗ってる方が多くいて、朝廷の臣下を名乗られては、迷惑千万だったでしょうね~~
そこで、源氏の棟梁の気概を見せた・・そういうところかと。
したがって、多くの源氏の流れを汲んでいても、名字の違う「武田」や「新田」や「足利」という姓が出てきたんだと思います。
清和源氏と家系図の感想とまとめ!
「征夷大将軍」
は源氏の象徴ともいえる、まさに「権威」の象徴と言えるかもしれません。
が・・鎌倉幕府の執権政治では、将軍職がかすんで見えるのは、私だけかな?
しかし、いずれ天下を制した証でもある、この称号はまぎれもなく武家の最高の称号であることは、間違いないでしょう。
そこに、居並ぶ将軍のほとんどが
源義仲(木曾義仲)以降、源氏です。
徳川家康公は、諸説ありますが源氏という事になっています。
日本で「源」の姓を名乗ってる方は、ちょっと調べてみたのですが、4,000人程度いるそうです。
名詞頂いたら「おっと~~」ってなるな‥私の場合は。
全て書ききれませんし、紹介もできませんが、私の知りたいところだけ書いてみました。
次回は「桓武平氏」について、紹介しようと思います。
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北条義時と鎌倉北条氏の家系図を紹介しました。
執権職とは・・についても解説しました。
北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!
源義経は悲劇のヒーロー!
源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!
胴塚(墓)に行ってきたので、その写真も紹介しました。
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*ヘッダーの写真は、一昨年行った鎌倉の東慶寺の写真です。