木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!
「源義仲」ですが「木曽義仲」の方が、しっくりくるかと。
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巴御前が有名なのですが、ロマンを感じるな~~。
木曽義仲の源氏の位置関係を系図で!
源義仲の系図は以下です。
ご覧のように父は「源 義賢(みなもと の よしかた)」で、驚くことに、頼朝の父
「源義朝」
と兄弟です。
なので、「義仲」は「頼朝」とは従兄弟になります。
源氏の系譜から言えば「八幡太郎義家」を擁する、嫡流の分かれになろうかと。
源義仲の誕生は久寿元年(1154年)!
(wikipediaより)
「源義仲」
の誕生は
「久寿元年(1154年)」
です。
今から860年以上前のこと。
一大旋風を巻き起こしました。
しかしながら、根回しなどは苦手な方のようですね。
木曽義仲の親と兄弟の家系図!
以下になります。
上の系図によります。
母は、「小枝御前」という方ですが、どうやら?がついて、はっきりしないようです。
兄弟は3人。
- 長男:仲家:治承4年(1180年)5月17日平家追討軍で非業の最後。
次男:義仲
長女:宮菊姫:義仲没後、最終的に美濃国遠山荘の一村を与えられる。
宮菊姫については、政子よりも年長と思われ、実は義仲の娘ではないかとも、言われるようです。(想像)
木曽義仲の正室と側室と子供たち!
木曽義仲(源義仲)の正室と側室と、子供たちの家系図です。
いろんな情報を精査しながら、以下のようにな作成してみました。
記録に残ってない部分もあるので、正確かどうかはいまいちですが、以下のようになります。
木曽義仲の正室は誰だ?
「木曽義仲」
の正室は諸説あります。
- ➀:藤原伊子:父は関白・松殿基房。
➁:金刺盛澄の娘:諏訪神社に記載あり
➂:巴御前:伝説
など。
勝手な想像ですが、1番は政略婚。
しかし、この方義仲亡き後の再婚で
「道元」
さんを産んだと??
ほんとかな?(諸説あるようです)
山吹御前の子供たちとその後!
「山吹御前」
は、中原兼遠の娘で、巴御前の妹とも言われます。
一方で「金刺盛澄の娘」という説もあり、諸説あるようです。
- ➃:長男:義高:鎌倉に人質:義仲亡き後12歳で非業の最後。
➄:中原氏(女性):山吹御前が義仲亡き後伊予の国に逃れ出産。
その後は不明
金刺盛澄の娘の子供たちとその後!
この方が正室という、そんなお話も。
『諏訪大明神絵詞』に、
「諏訪下社大祝である金刺盛澄が、義仲を婿にとり女児が誕生」
不遇の時代のお話かもしれませんね。
- ➅:金刺氏(女性)
その後の所在は不明
母親不明?の子供たちとその後!
此方は母親不明ですが、子供たちは、歴史的には一番名前が出てくる方。
- ➆:沼田義重(二男):『西筑摩郡誌』では木曾氏の祖
➇:沼田義基(三男):『木曽考』・『木曽殿伝記』では木曾氏の祖
➈:鞠子 :不明
沼田義基(三男)の方は、上野の国沼田に落ち延び、その後親鸞の弟子に。
越後で長称寺を開基。
寺には「義仲」の太刀や義基の懐刀が寺宝として伝わるようです。
この「義基」からの別れが以下。
「原氏・上野氏・馬場氏・古畑氏・贄川氏・千村氏」
です。
藤原家国の娘?の子供たちとその後!
「藤原家国の娘?」
名前はわからず。
- ➉:沼田義宗(四男:『尊卑分脈』では四郎(細野四郎)と云われ、『西筑摩郡誌』では木曽氏の祖。
この方、「頼朝」を討とうとしたことが。
しかし、許されて
“湯本”の姓と地頭職を与えたと湯本氏諸系図に記載。
青の厳しい頼朝がよく許したもんだな~~と、正直な感想。
巴御前の子供たちとその後!
「巴御前」
は、もしかしたら「木曽義仲」が最も愛した女性ではないでしょうか?
共に戦い、いつもそばにいたようですね。
まさに「女武者」の代表格。
11:沼田基宗(五男):『高遠記集成』では義仲の五男とし、木曾氏の祖
しかし、この五男は、四男(義宗)の誤記かもと言われるようです。
12:双子
義仲亡き後、木曾の奥地である萱ヶ平に逃れ双子を産むとあります。
此方が
「小木曽氏」
を名乗ったという・・とあります。
これはロマンですね~~~
母親不明?の子供たちとその後!
またまた不明の方です。
がいたんですね~~
13:平栗丸(へぐりまる):山口県柳井市の島に逃れ、その名が平郡島(へいぐんとう)になった。
14:(男子か女子か不明)
岡山県英田郡東栗倉村中谷は、全国でも珍しい「源氏の落人」の部落。
そこに、木曽義仲の子孫が流浪の末に定住。
現在も、29代目として続いてるそうな。
これは驚きました。
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鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。
鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!
源頼朝の源氏宗家の家系図です。
妻や側室と、その子供たちとその後を解説しました。
源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!
甲斐源氏の祖の方。
武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!
父までは「源」せいですが、「武田」箱の方から。
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木曽義仲の子孫はどのようになった?
「木曽義仲」
亡き後も、その子供たちは、果敢に生きていましたね。
戦国時代の「木曽氏」は、その末裔で、どうやら間違いなさそうです。
特に戦国時代の「木曾義康・義昌・義利」越後で、寺を開祖した
「義基」
の流れと言われます。
義仲亡き後に、いったん甲斐の国に身を隠し、その6代後の子孫の
「家村」
の時に、木曽谷を領地にし、原氏・上野氏・馬場氏・古畑氏・贄川氏・千村氏の諸家に分かれたとあります。
そして、なんとも不思議な
「源氏の落人」
ですか~~
初めて聞きました。
他にも有力な大名に勤続された方もいて、優秀な方は、やはり採用されるんだな~~と。
*資料を調べて、至った結論を自分なりにまとめました。
もし、差異があっても容赦ください。
木曽義仲の平家との戦いと源頼朝との関係!
木曽で、うたたねをしていたら、「以仁王から平氏打倒を命じる令」が!
こんな場面でしょうか。
以下年表に。
「久寿元年(1154年)」 | 誕生 |
治承4年(1180年) | 以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し |
同年 | 小見「麻績」の戦い合田の戦いに勝利し幸先がいいスタート |
治承5年(1181年)6月 | 白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など3千騎を集結し城助職を横田河原の戦いで撃破。 |
寿永元年(1182年) | 以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示 |
寿永2年(1183年)2月 | 志田義広と、行家を匿い、頼朝と険悪に。3月長男義高を鎌倉に人質に。 |
同年5月11日 | 越中国礪波山の「倶利伽羅峠の戦い」で10万とも言われる平維盛率いる平氏に完勝! |
同年7月28日 | 今日の都の入京する |
同年8月10日 | 従五位下・左馬頭・越後守 さらに16日「伊予の守」「朝日将軍」も賜る |
その後 | 京都の飢饉と、兵士追討の戦が一進一退で進まず。 |
朝廷との仲が最悪になり、敵が兵士ではなく、頼朝に代わる。 | |
11月19日 | 法住寺殿を襲撃、後白河法皇を幽閉 |
12月10日 | 源頼朝追討の院庁下文 |
寿永3年(1184年)1月15日 | 征東大将軍に任命。宇治川や瀬田での戦いに惨敗 |
最後同年1月21日 | 近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)享年31歳。 |
九条兼実の嘆き | 「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」 |
と、かなり端折った年表ですが、あっという間の天下で、あっという間に終わってしまいました。
挙兵から、たったの4年に満たない期間です。
どこが失敗?
この辺は書くまでもないでしょうが、現代社会にも通じるかと思います。
木曽義仲の人生に思う事!鎌倉幕府の短命も含めて!
「源義仲」
とも「木曽義仲」とも、どちらでもいいのですが、しかし
「源氏」
という、ブランドの上に、この時代は成り立っていることは事実。
1地方の豪族が、源氏の正当な嫡流ならば、それはもう馬印としては、最高の旗だったんだな。
- 1:木曽義仲
2:武田信義
3:源頼朝
この三人は、それぞれに源氏です。
しかし、源姓はあくまでも
「源頼朝」
なんですね~~
此方が、本流(嫡流)です。
「武田信義」
は、それが十分にわかっていた方、だったんだと思います。
「起請文」
も書いているわけです。
木曽義仲の鎌倉殿への貢献はどんなことがあるか?
「頼朝」
にしてみればどうでしょうか?
此方サイドから見ると、なんとなくイメージできるかと。
- 1:面倒な、平家を今日の都から追放してくれた。
2:ちょうど良いように内部崩壊。
3:これこそ漁夫の利
的に思うかもしれません。
平家は、あとは残党程度ですから。
今度は本人の立場から・・・
木曽義仲は、何が何だかわからずに、京都まで進軍して、連戦連勝。
天狗になってしまった?
そこはやはり、調整が必要だったのでは?
独断専横が、過ぎたのかもしれませんね。
しかし、子孫は、各界でその後活躍していきます。
この間「石田三成」の事を書いたのですが、こちらの子孫はすごいことになっていました。
DNAは、永遠ですね。
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北条義時と鎌倉北条氏の、家系図と政子との関係など。
北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!
清和源氏の系図です。
清和源氏とは?家系図から見る祖と嫡流や河内源氏と鎌倉幕府の改革!
なんともすごい系図でした。
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