酒井忠次の家系図と正室と子孫のその後と戦国時代の功績年表で解説!

酒井忠次のは徳川四天王の一人で徳川家康公に貢献。
  • ➀:家系図と正室と子供の名前。
    ➁:子孫その後と酒井家石高と庄内藩。
    ➂:戦国時代の功績年表で解説。
    ➃:酒井忠次の逸話。

[speech_balloon_left1 user_image_url=”https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076/img/no-avatar.png” user_name=””]「酒井忠次」は徳川家康公の重臣。[/speech_balloon_left1]

 

酒井忠次の家系図から見る正室と子供の名前

「酒井忠次」は

  • ➀:徳川四天王
    ➁:徳川十六神将

として戦国時代を駆け抜け「徳川家康公」の第一の功臣と言われます。

酒井忠次の家系図から見る正室と子供

「酒井忠次」
の正室は松平清康の娘・
「碓井姫」
しかし、子供の人数が子だくさんなのでもしかしたら側室も数人いたかもしれません。

「松平 清康(まつだいら きよやす)」
は、三河国安祥城城主および岡崎城主で実は
「徳川家康公」
の祖父(おじいちゃん)なのでした。
よって、徳川家康公は
「甥」
に当たります。

家系図は以下。

*上記家系図は情報をもとに管理人が作成しました。
酒井忠次の子孫からは端折った部分があることを了解ください。

酒井忠次の子孫その後の処遇!江戸時代は?

「碓井姫」
との間の子供の名前とその後の処遇は以下の表で。

「五男四女」
です。

家継:長男 酒井佐衛門尉家第6代当主。(家督相続)
本多 康俊:次男 本田忠次養子、近江膳所藩初代藩主。康俊系本多家宗家初代。:3万石
小笠原 信之:三男 小笠原信嶺の養嫡子になる。下総古河藩初代藩主。信嶺系小笠原家初代。。
松平久恒 情報なし
忠知 情報なし
ふう 松平伊昌室
鳳樹院 牧野康成室
名前不詳 本郷頼泰室
名前不詳 曽我尚佑室
養女 山岡景佐の娘

子だくさんな方でした。
*側室もいたようなので定かではないですが、そういう事で。

酒井忠次の戦国時代の功績!したこと年表で解説

「酒井忠次」
の戦国時代の数々の勲功やしたことを、主だったことを以下の表に抜粋してみました。

大永7年:1527年 酒井忠親:次男:三河額田郡井田城で誕生:主君は家康公の父:松平広忠
1550年(頃) 今川家人質とし家康公(竹千代)に駿府同行(23歳)
永禄3年:1560年:5月 桶狭間の戦い:その後徳川家家老職
永禄6年:1563年 一向一揆:他の酒井派は殆ど一向一揆はも「忠次」は家康公に従う
1564年 吉田城攻め:その功績で吉田城主:東三河の旗頭:三河東部の諸松平家・国人を統制する役割
永禄12年:1569年 武田信玄駿府侵攻で交渉役
元亀元年:1570年 姉川の合戦に参戦
元亀3年:1573年 三方ヶ原の戦い:敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている
天正3年:1575年 長篠の戦:分遣隊を率い河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功
天正7年:1579年 松平信康の件で織田信長からの詰問に弁解の使者。不成功と言われるも諸説あり。
天正10年:1582年:6月 本能寺の変
      同 天正壬午の乱:奥信濃の掌握を図るも失敗
天正12年:1584年 小牧長久手の戦い:羽黒の戦いで森長可を敗走させる
天正13年:1585年 石川数正出奔:後家康公唯一の重臣
天正14年:1586年:10月24日 従四位下・左衛門督に叙位任官
天正16年:1588年:10月 家督を嫡男「家継」に譲り隠居:隠居の理由は眼病とも言われます。
慶長元年:1596年:10月28日 京都桜井屋敷で死去:享年:70歳

「酒井忠次」
は、徳川家康公の一番の大勝負
「関ケ原の戦い」
には参加できませんでした。

あと4年・・と言ってもあと15年も若いと、歴史の大舞台で活躍できたかもしれません。
それをいったら、他の武将(早すぎた方)もそうですが。

「酒井忠次」と「酒井家」の石高と領地の維新までの変遷!

「酒井忠次」
に限らず、徳川家の武将については石高はそんなに多くありません。
「井伊直政」
は破格でしたが、他は総じて10万石程度。
酒井家は以下のようでした。

酒井忠次 三河吉田城主
酒井家次:嫡男 三河吉田城主:家督相続
 天正18年:1590年 関東移封:下総国臼井に3万7,000石
 慶長9年:1604年 関ケ原後:上野国高崎5万石
 元和2年:1616年 越後高田藩10万石
酒井忠勝:孫 元和4年:1618年:家次死去により家督相続
 元和5年:1619年:3月 信濃松代藩10万石
 元和8年:1622年:6月7日 出羽庄内藩13万8,000石
 他支藩 大山藩:1万石:寛文8年(1668年)嗣子がなく、藩主死去に伴い幕府領
出羽松山藩:2万五千石:酒井忠勝の三男・忠恒が祖。明治維新まで継続

「庄内藩」
は、実石高は
「17万石」
とも言われます。
然し、転勤がとても多かったですね。
これでは、懐具合はしんどかったのでは?
そう推察します。

お家騒動などもありましたが、このまんま
「明治維新」
まで続いていきます。

酒井忠次の家紋と墓と刀の逸話

「酒井忠次」の

  • ➀:家紋
    ➁:墓所
    ➂:刀

など紹介。

「酒井忠次」の家紋は「丸に片喰紋」

「酒井忠次」
「酒井家」
の家紋は「丸に片喰紋」です。
「片喰」(かたばみ)
とは、生命力が強い植物として知られます。

子孫繁栄という意思が込められていたんだと思います。

なお、この家紋は
「日本十大家紋」
の中の一つに数えられます。

もう一つの酒井家家紋がこちら。
「剣片喰紋」
と言われます。
同じ酒井氏でも流れが違います。

「藤原北家秀郷流多田氏族(ふじわらほっけひでさとりゅうただしぞく)」
の酒井家の家紋。

此方の家紋は
「剣」
のような、「いかつい」印象の家紋です。

「酒井忠次」の墓所は京都知恩院!

「酒井忠次」
は、隠居場所の京都「桜井屋敷」でなくなりました。
やはり墓所は京都で

「知恩院」
で「塔頭・先求院」
というところ。

写真はないので、知恩院の写真で。


(wikipediaより)

すごいお寺さんなんですね。
こういう景色見ると、日本っていいところだな~~としみじみ感じます。
ぜひ、私も行ってみたいです‥京都!

「酒井忠次」の愛刀は「猪切」

「酒井忠次」
の愛刀は
「猪切」(いのししぎり)
と言われる名刀。

いわれは酒井忠次が家康公のお供で狩りに出かけた時に
「猪」
が現れ、その猪をこの愛刀で「切り捨てた」ことに所以。
素の所以で「猪切」の金象嵌を入れたとあります。

作は、村正の高弟である正真の作。

当初所蔵は七男の「松平甚三郎」の家系で江戸時代
「庄内藩家老職」
の酒井久重氏に伝来。

現在は岡崎市の所有物であり、同市にある三河武士のやかた家康館が収蔵。


酒井忠次にまつわる逸話!これこそ名将の証!

酒井忠次には多くの逸話が残されています。

  • ➀:門松の竹が斜め切の理由
    ➁:海老すくいという踊りで宴会を盛り上げた
    ➂:長篠の合戦での鳶巣山の夜襲

三つ取上げてみます。

門松の竹が斜め切の理由は武田の句が由来!

元亀4年(1573年)正月
武田方より、一首の句が送られてきます。

「松枯れて竹たぐひなき明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」

家臣はこれを読んで、多くが激怒したのはもちろん。
然し「酒井忠次」は落ち着いて、それに濁点をつけて

「松枯れで竹だくびなき明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」

と読み返して、返送。
これが所以になり、正月の竹は斜めに切ってあるという事らしいです。

なるほど~~
これは、自分も物知りになった気分。
勉強になりました。

「海老すくい」という踊りで大いに宴会を盛り上げた!

「海老すくい」
という踊りがどんなものかはわかってないようですが、今でいう

「どじょうすくい」

のようなものかという注釈がついています。
恐らく、場を盛り上げるための愉快な踊りだと思います。
しかし、この場を和ませる
「宴会部長」
は、宴席では欠かせない存在。
「家康公」が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露したとあります。

時には、重要な外交の場の縁戚でも
「宴会部長」
がいると居ないのとでは雲泥の差が出ます。
「接待上手」
なんだと思います。

長篠の合戦での鳶巣山の夜襲では信長公の歓心を引く!

「酒井忠次」
の徳川四天王での実力の最たるものかもしれません。
「長篠の合戦」
で、軍議で

「鳶巣山の夜襲」

で、敵の背後を崩す作戦。
一旦は「信長公」から一蹴されるも、作戦の漏れを嫌った芝居。
実際は、別動隊を率いて大いにかく乱。
信長公も一目存在に。

徳川四天王「酒井忠次」の感想とまとめ

「酒井忠次」
は「徳川四天王」では最高齢。
生きる時代がチョト早すぎたかもしれません。

しかし、「徳川家康公」の創成期を見るなら、駿府での今川方の人質時代から人生を大きく転換させた
「桶狭間の戦い」
の場面。
その時の参謀として、家康公を補佐した功績は大きいでしょう。
その後の
「三河の国」
の統一でも、大きな役目を果たしています。

まさに「酒井忠次」なくば・・の世界で、かなりいなければ
「不自由」
の場面があったと思います。

部下をまとめる、重要な存在は何も戦国時代だけではなく
「現代の企業経営」
でも十分に当てはまります。

そういった意味では
「徳川四天王」
という存在の勇猛な武将でありながら
「家老」
という部下を束ねる素晴らしいリーダーだったんだと思います。


*ヘッダーの写真は、私が撮影した松島瑞巌寺の風景写真です。

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