大江広元の家系図と子孫には誰が?鎌倉幕府成立でしたこと年表で!

[speech_balloon_left1 user_image_url=”https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076/img/no-avatar.png” user_name=””]大江広元は鎌倉幕府の優秀な官僚!子孫には孟子の名前も。[/speech_balloon_left1]

 

大江広元はどんな人?鎌倉殿との関係をレビュー!


(wikipediaより)

「大江広元」(おおえのひろもと)
って何をした人?
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の一人で、鎌倉殿に大きく貢献して、さらに鎌倉幕府成立後は、その過度期に才能を発揮した人物。
そう言えるかと。

実は、トップは将軍の「鎌倉殿」。
次はどう見たって「北条義時」の北条執権殿。
多分その次あたりの席順かな‥多分。

もしかしたら、北条執権殿を差し置いて、鎌倉殿の信頼から言ったら
「ナンバー2」(官位ではそうでした)
かもしれません。

優秀な官僚。
そんなイメージ。
なので、鎌倉殿の覚えもよく、期待に十分こたえていき、この過度期の鎌倉執権を、うまく泳いで生き延びました。

鎌倉殿の13人での発表時
「大江広元は、頭脳で乱世を生き抜く官僚」
と紹介されています。

大江広元の系図と家系図!子孫のその後!

大江広元の基本情報です。

大江 広元(おおえ の ひろもと、旧字体:大江廣元)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての貴族。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府及び公文所の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。
(wikipediaより)

  • 生誕は:久安4年(1148年)
    没年は: 嘉禄元年6月10日(1225年7月16日):78歳(他説あり)
    改名:中原広元→大江広元→覚阿(法号)

以下家系図です。

「大江広元」
の出自は諸説あり、実父と養父が、諸説あります。
吾妻鏡に

「養父中原広季に養育された恩はあるが、大江氏の衰運を見逃すことはできない」

という、改名の申状の記述があり、という事は

  • 実父:大江維光
    養父:中原広季(母の再婚相手)

と見るのが、だとうかな~~と思います。
曾祖父の「大江 匡房(おおえ の まさふさ)」という方は、学者で兵法にも優れて
「八幡太郎義家」
は弟子だった?
そんな逸話も。

家系図から見る子孫のその後!現代の子孫はいる?

家系図を整理して、子供たちを一覧にしてみました。

大江広元(おおえのひろもと)とは?
鎌倉幕府の要職をつとめ、中枢にはなくてはならない人物!
  • ・家系図から子の名前とその後。
    ・鎌倉幕府成立でしたこと年表で。
    ・子孫のその後と毛利氏酒井氏の祖。
    ・大江広元の墓の場所と家紋。
親広(ちかひろ):長男 承久の乱で朝廷側に。負け寒河江荘に隠棲。寒河江荘はその後三男広時が相続
時広(ときひろ):次男 家督を継いだ。仁治2年(1241年)に死去。米沢城を築いたとされる。
那波宗元(むねもと):三男 上野の那波弘純の養子で那波を継ぐ。
毛利 季光(もうり すえみつ):四男 宝治元年北条氏と対立の妻の三浦氏につき敗北自刃。その後は別に解説。
忠成(ただなり):五男? 海東忠成(別名)宝治合戦の兄「季光」に同行。罷免され京都で没する。
尊俊(たかとし):六男? 大津・園城寺(三井寺)大僧都
水谷重清(猶子) 不明
飛鳥井雅経室
中原師業室
藤原公国室

私が調べた限りでは、上の七男三女になるようです。
長男親広(ちかひろ)承久の乱では、朝廷方(院)について、親子兄弟でまるで関ケ原の様相。
勝ったのは「広元」側で、鎌倉殿の圧勝。

その後、歴史から消えたのですが、寒河江荘に隠棲し
「寒河江氏」
の祖になりました。(山形県です)

毛利季光と大江忠成の子孫は安芸毛利氏と酒井氏で大きく繫栄!

「大江広元」
氏の子息のこの二人は、その後の日本の歴史に登場する人物の、祖になります。

毛利季光の子孫は安芸毛利氏!

「毛利季光」の妻は、三浦義村娘です。
宝治元年(1247年)の「宝治合戦」は、北条執権と、その妻の実家の三浦氏との戦い。
これには敗れて、自刃します。

しかし、その子供に当時「越後」にいた4男の
「経光」
がいましたが、この方だけが、毛利一門での生き残り。
叔父の「長井時広」の必死の根回しで

「越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵」

とあります。
以後、この長井氏と毛利氏の関係はより緊密に。
続きは「毛利元就編」で・(いつになるかな?)
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大江忠成の子孫は酒井氏の祖!

「大江忠成」
は大江広元の「五男」です。
別名を「海東忠成(かいとう ただしげ)」と言います。

「海東」
というのは、父広元から、尾張国海東郡を与えられ、海東を名乗るとあります。

その後、尾張国の熱田神宮大宮司の養子となり「大宮司」に。
しかし、1247年(宝治元年)の宝治合戦で、兄と同じ連座で、幕府評定衆を罷免。
京都で死去。

「大江忠成」の末裔は女系でのちに、三河の国

「酒井氏」

の祖になったと。
松平氏(徳川)に仕えて大活躍する

  • ➀:酒井忠次
    ➁:酒井正親

を輩出します。
素晴らしいですね。

*家系図はいろんな情報をもとに、私が作成しました。
抜けて居るところがあるかもしれませんが容赦ください。
ほぼ、こんなところで。

大江広元のしたこと歴史年表の表で確認!

大江広元のしたこと(活躍)を以下の表に、年表にしてみました。
抜粋です。

久安4年(1148年) 誕生 中原姓を名乗る。
寿永2年(1183年) 兄中原親能の縁で頼朝に士官。公文書別当。従五位下
頼朝が二品右大将 公文書が政所に。別当として朝廷との交渉、実務家で勤務
正治元年(1199年) 頼朝死後、北条執権とともに幕政に参加
1221年(承久3年) 承久の乱。上に書いたように親子相克。長男を亡くす。広元は鎌倉側
活躍➀ 朝廷とのパイプを持っており、頼朝はかなり重宝。
活躍➁ 士官時にすでに従五位下。鎌倉殿弟範頼、北条時政も最高従五位下
活躍➂ 頼朝死後官位は正四位。義時よりも上。実質将軍の次のナンバー2の資格。
秘話➃ 「成人してから後、涙を流したことがない」情に流されない性格。
建保4年(1216年) 陸奥の守。姓を中原から「大江」に改める。
嘉禄元年6月10日 (1225年7月16日)没。(78歳)

大江広元は、頼朝に士官する以前は、御所での下級貴族として勤務。
頭脳明晰で、明経得業生(篤体制のようなもの)にもなっていたと。

兄の中原親能が、頼朝と親しかったために、兄のつてで転職。
もしかしたら、請われたのかもしれません。

鎌倉殿をめぐる過度期の、御家人は何度もいざこざが絶えず、そのたびに粛清が行われましたが、巧みにかわしながら、人生を全うしました。
やはり有能な方だったんですね。

大江広元の墓はどこ?家紋と位置情報!

大江広元の墓は、鎌倉市にあります。
家紋はどんな紋様か?

それぞれ、考察します。

大江広元の墓は鎌倉駅から2km弱の場所!

鎌倉駅から、2km弱の場所です。
住所は:鎌倉市西御門2丁目

マップは以下。


(google mapより)

写真はこちら

ここには大江広元と、4男で宝治合戦で三浦方について、敗れた「毛利季光」と「島津忠久」の墓も並んでいます。
えらい方々ですね~~

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大江広元も家紋はどんな紋だ?

さて?
これがわからず。
しかしヒントが。

広島安芸毛利氏の旗は、この
「毛利季光」
の旗を継承したらしいと。

四男ですが、しかし大江の旗を継承していたかも!
全くの予想ですが、それも浪漫かと。

この家紋・・かっこいいですね。
浪漫を感じます!

大江広元のしたことや子孫の感想とまとめ!

「大江広元」
氏の人生を、振り返ってその子孫のその後などを、書いてきました。
曾祖父の
大江 匡房(おおえ の まさふさ)」
という方は、すごい方だったんですね~~
しかし、その後は鳴かず飛ばずで、衰退の一途!

そこで、鎌倉の時代に、「大江」の家から、素晴らしい方が。
しかし、育ての親は「中原氏」

朝廷での下級貴族(官人)として勤務とありますが、源氏にトラバーユしてからは、破竹の出世。
政所の別当(長官)として最高位での勤務。

朝廷とのパイプを生かした、交渉役としても、かなりの働き。
官位は「北条義時」よりも上だったと。

とても素晴らしい方です。
大江氏の末裔はいかですね。

  • 1:山形寒河江氏
    2:山形長井氏
    3:上田氏
    4:越後北条氏
    5:安芸毛利氏
    6:尾張酒井氏
    7:那波氏

これだけの祖になっています。(養子も含めて)
素晴らしい家系です。

その後の日本の歴史を、楽しませてくれる面々を輩出し、さすがと・

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*ヘッダーの写真は、私が撮影した遠野市の河童渕の写真です。

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