黒田官兵衛の家系図と黒田家の系図と石高推移!
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正室(妻) | 櫛橋光(くしはし てる(みつ)):櫛橋伊定の娘 |
長男(嫡男):長政 | 筑前国福岡藩初代藩主(52万石) |
次男:熊野助 | 慶長の役で挑戦にわたる途中船の事故で16歳で死去 |
養子:一成(かずしげ) | 加藤重徳の次男:三奈木黒田家の初代当主で黒田家で大老職 |
養子:松寿丸 | 妹婿の一柳直末の遺児。13歳で夭逝 |
一説には、愛人がいて隠し子(ご落胤)がいたともいわれます。
「森鴎外」
の小説の中に登場しますが、真実はさて?
現存する子孫の方に、言及されてる向きもありますが、この辺はそっと。
黒田官兵衛のしたことを年表で!石高の推移と領地の変遷!
「黒田官兵衛」
のしたことを年表で。
また「石高」と所領の領地の変遷を解説。
黒田官兵衛のしたことを年表で見てみる!
いかに要点をまとめてみました。
天文15年(1546年) | 11月29日:誕生(嫡男)幼名「「万吉」 |
永禄5年(1562年) | 土豪を征伐し、初陣を飾る:小寺官兵衛と名乗る。 |
永禄10年(1567年)頃 | 家督と家老職を継ぎ姫路城代 |
同年 | 櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎える。 |
永禄11年(1568年)9月 | 足利義昭15代将軍に。 |
永禄12年(1569年) | 毛利元就に対して決起 |
同年8月 | 赤松政秀3000で姫路に攻めるも300の兵で奇襲で撃退 |
天正3年(1575年) | 主君・小寺氏に織田氏につくことを進言。 |
7月 | 秀吉の仲介で織田氏に岐阜城で謁見。「圧切長谷部」を戴く。 |
天正5年(1577年)5月 | 毛利氏と英賀で五千の兵に五百で奇襲し撃退 |
10月 | 長男「松寿丸:ながまさ」を人質として織田氏に差し出す |
同じく | 羽柴秀吉播磨に進駐。姫路城を差し出し一族は国府山城に。 |
この時期より | 秀吉の参謀を竹中重治(竹中半兵衛)と務める。 |
天正6年(1578年)3月 | 別所長春との三木合戦 |
9月 | 宇喜田直家秀吉方に調略成功 |
荒木村重謀反 | 有岡城の戦い:懇意の荒木氏説得も逆に幽閉される |
天正7年(1579年)10月19日 | 有岡城は開城。栗山利安に救出も足が不自由に。 |
天正8年(1580年)1月 | 三木城陥落 |
10月 | 揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石賜る。 |
天正9年(1581年)6月 | 鳥取城の飢え殺しといわれる兵糧攻め。 |
天正10年(1582年) | 備中高松城攻略(水攻め)相手は清水宗治 |
同年6月2日 | 本能寺の変:和睦して中国返しを提案 |
同年6月13日 | 明智光秀との「山崎の戦い」 |
天翔11年(1583年)4月 | 柴田勝家との賤ケ岳の戦い |
天正12年(1584年) | 小牧・長久手の戦いでは大阪城留守居役 |
本戦の中盤以降 | 召喚で撤退戦でのしんがりを務める。 |
7月 | 播磨国宍粟郡5万石を賜る |
天正13年(1585年) | 宇喜多秀家軍に軍監として四国攻めに加わる。 |
同年 | キリシタンに入信・洗礼で「シメオン」と。 |
天正14年(1586年) | 従五位下・勘解由次官 |
10月 | 毛利氏などを含む軍勢の軍監で吸収征伐に参戦 |
天正15年(1587年)7月3日 | 豊前国の中の6郡12万石を賜る |
天正16年(1588年)1月頃 | 中津城完成 |
天正17年(1589年)5月 | 家督を長政に譲り隠居も秀吉に使える |
天正18年(1590年) | 小田原征伐で無血開城を果たす。 |
北条氏直より | 名刀「日光一文字」を賜る |
文禄元年(1592年) | 文禄の役に軍艦として参加 |
文禄2年(1593年)8月 | 剃髪して「如水軒円清」と号する |
慶長2年(1597年)~ | 慶長の役の最中で二男「熊之助」を船の事故で亡くす。 |
慶長3年(1598年)8月 | 関白殿下秀吉死去 |
慶長4年(1599年) | 前田利家死去で一挙に情勢が緊迫する |
慶長5年(1600年)6月2日 | 家康公「上杉景勝」の討伐令 |
6月6日 | 長政、家康養女「栄姫」と再婚 |
7月17日(8月25日) | 石田三成挙兵で関ケ原の戦いにまっしぐら |
慶長5年9月15日(1600年10月21日) | 関ケ原の戦い |
同年 | 九州でめいっぱいの軍を率い平定に暗躍。武功を上げる。 |
11月12日 | 家康公の停戦命令を受けて全軍解散。 |
関ケ原合戦後 | 長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増。 |
この際官兵衛にも領地加増も辞退する。隠居生活。 | |
慶長9年3月20日(1604年4月19日) | 辰の刻京都伏見藩邸で死去。享年59歳。 |
辞世の句 | 「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」 |
見事な人生。
戦乱の戦国の世を、合戦の中で生き抜いてきた人生は、見事としか言いようがありません。
しかし、59歳とは早いですね。
鎌倉殿の時代でも「80代」まで健在な方は、多数いるのにどうして?
やはり、やりがいとか、生きがいとか、人生にぽっかりと穴が開くと、その限りではないのかもしれません。
張りつめて、生きるか滅亡かの世界を生き抜いてこそ、長生きの秘訣なのかもな~~と。
よく、定年するとまさか‥という方いますが、同じようにも感じす。
黒田官兵衛の石高と領地の推移!
「黒田官兵衛」
の領地は、なんとも少ないです。
後に、太閤検地での実態は、見かけ以上だったとはいっても、貢献から言えば
「100万石」
クラスかな~~と。
以下の表にまとめてみました。
天正8年(1580年)10月 | 揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石賜る。 |
天正12年(1584年)7月 | 播磨国宍粟郡5万石を賜る |
天正15年(1587年)7月3日 | 豊前国の中の6郡12万石を賜る |
関ケ原合戦後 | 筑前国名島(福岡)52万石 |
と、こんな感じの表向きになります。
関ケ原の時点で「黒田官兵衛」にも、相応の・・という提案があったようですが「辞退」。
が・・例えば「豊前国」の12万石。
太閤検地の際は:14万石。
が・・関ケ原の時に「黒田長政」は
「五千」
の兵で参戦。
が・・おかしなことに九州の戦で、「黒田官兵衛」の基にはまだ
「五千」
の兵が。
しかも、財政が豊富で、どんどん兵を雇っていきます。
最初に1万の兵員の動員力があると、石高では1万石で250人と計算すると
「40万石」
ですね~~
そこまでなくとも30万石近くの実力はあったのでは、その「豊前国」は思います。
- 太閤検地:14万石
寛永の検地:32万石
この検地の差は?
恐らくですが、太閤検地の際に何かの手を使って
「過少申告」
又は、検地の責任者が忖度した可能性も。
然し、秀吉子飼いの大名は、ほとんどが20万石以下。
- 福島正紀:24万石
加藤清正:19万五千石
黒田如水にしても、こんなものかと。
然し、もしかしたらうまくやったのかもしれませんね。
いずれ、関ケ原後は「52万石」の大名で、しかも後述しますが、徳川の世では代々継続の家康公のお墨付き迄。
黒田官兵衛の家紋と死因と墓所!
黒田官兵衛の
- ・家紋
・死因
・墓所
を解説します。
黒田官兵衛・黒田家の家紋は「藤巴」!
「黒田官兵衛」
の家紋は「藤巴紋」と言います。
実はこの家紋は「黒田官兵衛」も使用しますが、元は藤原氏の代表紋。
盟友「荒木村重」の説得に有岡城に出向くも、逆に「幽閉」されてしまいます。
その粗末な独房の窓の格子の隙間から、たくましく大きく育ってゆく
「藤蔓」
に励まされて、獄中生活を生き抜いたと。
そこで、その藤にあやかり
「藤巴紋」
を選んだと。
が・・実は、この藤巴紋は「蛇」が絡み合ってるように見えると。
此の蛇にあやかった紋は
- ➀:蛇の目
➁:三つ巴
などがあり、藤巴紋もその一つという説もあります。
藤を「蛇」に見立て・・蛇:渦巻・・
従って、この紋は蛇を強く意識した紋という説も。
確かに、黒田官兵衛の目にそういう光景も、外には見えたかもしれませんし、単純に藤の蔓のみを意識したのかもしれません。
いずれ、この
「藤巴紋」
が、黒田官兵衛の家紋です。
黒田官兵衛の死因は?59歳で行くにはまだ早すぎるような!
「死因」
は諸説あるようですが、決め手はありません。
「梅毒」
という説もありますが、主張するには矛盾が多く、やはり決め手に欠きます。
当時の寿命としては「59歳」は一般的に感じます。
父の「黒田職隆」は62歳。
祖父の「黒田職隆」は57歳で亡くなっています。
なので、代々の年齢から言ったら、やはりこれは寿命だったのかと。
辞世の句は、上に書きましたが
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
戦国時代を駆け抜けた英雄らしいな~~と、個人的には感じました。
黒田官兵衛の墓所は国宝の「崇福寺」と「龍光院」!
「黒田官兵衛」
の墓所は以下。
- ・京都「臨済宗大徳寺」の龍光院:黒田長政建立。
・福岡市博多区の崇福寺(そうふくじ)
京都「臨済宗大徳寺」の「龍光院」は、国宝で重要文化財を多数所有。
が・・一般公開はされてないようです。
特別公開もなく、拝観謝絶の寺院です。
初代筑前福岡藩主の「黒田長政」が、「黒田孝高(官兵衛・如水)」の菩提を弔うために建立。
「龍光院」
の命名は「黒田官兵衛」の法名の
「龍光院殿如水円清大居士」
に由来します。
「崇福寺(そうふくじ)」
は、創建が「1240年」とあり、とても古いお寺なんですね。
此方も「臨済宗大徳寺派の寺院」になります。
1600年(慶長5年)、京都大徳寺住持を務めた春屋宗園の請を受け、福岡藩初代藩主・黒田長政によって現在地の福岡市千代町に移転、建立開基された。これ以降、福岡藩主黒田氏の菩提寺として庇護を受ける事となる。境内北側には藩祖黒田孝高や長政ら藩主代々の墓所がある。
(wikioediaより)
戦前は多くの国宝があったようですが、空襲で焼失したものが多数とあります。
もったいないですね。
場所のマップは以下。
(googleマップより)
今の時代まで、きっちりと受け継がれていますね。
2014年に16代「黒田長高」さんという方から、墓所を福岡市に寄贈されたと。
市の都合のようですが、いろんな歴史を変遷してきたお寺さんでもあります。
黒田官兵衛は築城の名人!手がけた城の代表例!
「黒田官兵衛」
は築城の名人です。
手がけた城を、ざっと列挙してみます。
- ➀:妻鹿城
➁:中津城
➂:福岡城
➃:姫路城(共作)
➄:大阪城
➅:讃岐高松城
➆:石垣城
➇:名護屋城
➈:広島城
などなど・・たくさんの城の築城に参加しています。
熊本城の築城で(改修)で有名な
「加藤清正」公
はこんなエピソード。
「俺の城は~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちない」
と、その城の築城技術・・というかレイアウトになるのかな~~とも思いますが、そんな評価をしています。
加藤清正公も築城の名手です。
その方の評価ですから、とても重みを感じます。
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徳川家康公の子孫の方とその後を解説しました。
徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?
井伊直政・・言いの赤備えは有名です。
井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!
家康公との関係など解説。
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黒田間米所有の名刀「へし切長谷部」!
(写真はイメージです)
「黒田官兵衛」
の遺品での日本刀(愛刀)は、とても素晴らしい物がありますね~~驚きました。
以下。
無銘一文字(名物日光一文字) | 国宝:小田原征伐の際北条氏直より送られる |
へし切長谷部 | 国宝:美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際拝領 |
備前長船祐定(安宅切 | 四国攻めで安宅河内守を討ち取った時に使用したと。 |
いずれも、「福岡市美術館」に保存されてるとのこと。
こう言った歴史的な価値のあるものが、保存状態もよく現代まで保管されてるのは、とても素晴らしいことだと思います。
黒田官兵衛の逸話と人となりを表すエピソード!!
(写真はイメージです)
「黒田官兵衛」
にはいろんな逸話が残されています。
①:徳川秀忠公:「黒田孝高」を評し「今世の張良なるべし」
張梁は、漢の高祖の懐刀(軍師)でした。
漢の建国には「張梁」はなくてはならない存在。
遺訓:「人に媚びず、富貴を望まず」
この遺訓はいいですね。
人にこびず・・確かに。
富貴を望まず・・何かとこれに走る方は、世の中の話題になりそうな予感がします。
家康公は、関ケ原の戦いの後「黒田長政」の手を握って
『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』
と言って感謝したと。
しかし「官兵衛」は、それに対し
「その時、お前の左手は何をしていた?」
と言って叱責したと・・
しかし、これは事実とは違うというのが、最近の認識のようですねが、事実と違っても、もっともらしく聞こえるのはやはり
「黒田官兵衛」
ならではかと。
関ヶ原の戦いのときの逸話。
慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙。
「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」
その先のことまで、頭の中ではイメージできていたんだと思います。
九州を平定して、勢いをかって中国と四国に進軍。
いい歴史が作れたような気もします。
ロマンを感じるな~と。
皆さんはいかが思いますか?
黒田官兵衛は天才軍師!現代なら・・・まとめと感想!
「黒田官兵衛」
を評した「小早川隆景」の言。
「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」
(wikipediaより)
確かに、中国大返しの進言は、本能寺の変の発生の報告を受けて、おそらくその場でのこと。
悲しみのつかの間、次のことを即刻判断する切れ者ですね。
「小早川隆景」
の人物評は、かなり的を得ているようにも思います。
が、後悔することは、何かあったのかな~~と。
「豊前国」
12万石拝領の際の国替えの、地元豪族の「城井鎮房」の件などが、あるのかな~~と。
大河ドラマでは、泣く泣く・・・の場面でした。
黒田官兵衛が現代の時代なら?
「黒田官兵衛」
の名言に以下のような言葉が。
「自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせなさい。そうすれば、叱ったり脅したりしなくても自然に威は備わる」
これですね。
企業において、賞罰はすごく大事。
しかも公平感を持っていないといけません。
もう一つ。
自分の古い物を過信に譲っていました。
気になった家臣の一人が
「どうして家臣に売るのですか?あげてもいいではないですか?」
すると官兵衛は
「あげると、誰それにあげて、俺にはもらわないと不満が出る。だから売る。売ればほしい人は買うし要らない者は買わない。」
確かに。
人間って、ただって聞くと欲しがる人いますよね~~
要らないものを買う方はいないはず。
官兵衛の人を使う、また接し方の一例ですが、これを見ると現代では最も大事なことを、心得ていて今も昔も人を使う術は同じだな~~と感心した次第!
皆さんはどう思いますか~~~~?
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武田信玄の石高の推移を年表にしてみました。
素晴らしい増え方です。
武田信玄の石高の推移年表と兵力動員数!家系図(系図)と子孫その後!
織田信長の、正室は「濃姫」ですが、子供の人数とその後を紹介しました。
織田信長の正室と側室と子供は何人?息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生!
側室の方についても解説。
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*ヘッダーの写真は毛越寺の風景の写真です。