黒田官兵衛の家系図と石高!家紋や名言と死因!正室と子のその後!

黒田官兵衛の家系図と黒田家の系図と石高推移!
  • ・系図と家系図と正室とこのその後。
    ・黒田官兵衛の石高と所領地の推移。
    ・黒田官兵衛のしたことを年表で解説。
    ・家紋や名言と遺訓や死因と墓所。

[speech_balloon_left1 user_image_url=”https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076_1.7/img/no-avatar.png” user_name=””]「黒田官兵衛」は戦国時代きっての銘軍師![/speech_balloon_left1]

 

黒田孝高(官兵衛)の黒田家の系図!祖は近江の国黒田村にあり?

「黒田孝高(くろだ よしたか)」
の祖は

『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身とされる。
(wikipediaより)

しかし、不確定要素もあるという説明。
系図は以下です。

 

そこから祖父の、「黒田重隆」の代に播磨国に入り

  • ①:龍野城主・赤松政秀
    ②:小寺則職・政職父子

に使えたという経歴です。
「小寺氏」
は黒田氏を重用し
「姫路城代」
に起用するなど、小寺家では重臣でした。

父親の「黒田職隆」は正室に「小寺政職の養女」をめとり、その時点で
「小寺姓」
を名乗ることに。
なので、「官兵衛」もこの時は
「小寺官兵衛」
と名乗っていたと。

黒田官兵衛の家系図!正室と側室と子のその後!

黒田官兵衛の家系図は以下。
上の黒田家の系図に、一枚にまとめてみました。

 

側室はいなかったので、正室の
「櫛橋光」
だけなので、以下の表にまとめてみました。

正室(妻) 櫛橋光(くしはし てる(みつ)):櫛橋伊定の娘
 長男(嫡男):長政 筑前国福岡藩初代藩主(52万石)
 次男:熊野助 慶長の役で挑戦にわたる途中船の事故で16歳で死去
 養子:一成(かずしげ) 加藤重徳の次男:三奈木黒田家の初代当主で黒田家で大老職
 養子:松寿丸 妹婿の一柳直末の遺児。13歳で夭逝

一説には、愛人がいて隠し子(ご落胤)がいたともいわれます。
「森鴎外」
の小説の中に登場しますが、真実はさて?
現存する子孫の方に、言及されてる向きもありますが、この辺はそっと。

黒田官兵衛のしたことを年表で!石高の推移と領地の変遷!

「黒田官兵衛」
のしたことを年表で。
また「石高」と所領の領地の変遷を解説。

黒田官兵衛のしたことを年表で見てみる!

いかに要点をまとめてみました。

天文15年(1546年) 11月29日:誕生(嫡男)幼名「「万吉」
永禄5年(1562年) 土豪を征伐し、初陣を飾る:小寺官兵衛と名乗る。
永禄10年(1567年)頃 家督と家老職を継ぎ姫路城代
同年 櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎える。
永禄11年(1568年)9月 足利義昭15代将軍に。
永禄12年(1569年) 毛利元就に対して決起
同年8月 赤松政秀3000で姫路に攻めるも300の兵で奇襲で撃退
天正3年(1575年) 主君・小寺氏に織田氏につくことを進言。
    7月 秀吉の仲介で織田氏に岐阜城で謁見。「圧切長谷部」を戴く。
天正5年(1577年)5月 毛利氏と英賀で五千の兵に五百で奇襲し撃退
    10月 長男「松寿丸:ながまさ」を人質として織田氏に差し出す
    同じく 羽柴秀吉播磨に進駐。姫路城を差し出し一族は国府山城に。
この時期より 秀吉の参謀を竹中重治(竹中半兵衛)と務める。
天正6年(1578年)3月 別所長春との三木合戦
  9月 宇喜田直家秀吉方に調略成功
荒木村重謀反 有岡城の戦い:懇意の荒木氏説得も逆に幽閉される
天正7年(1579年)10月19日 有岡城は開城。栗山利安に救出も足が不自由に。
天正8年(1580年)1月 三木城陥落
   10月 揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石賜る。
天正9年(1581年)6月 鳥取城の飢え殺しといわれる兵糧攻め。
天正10年(1582年) 備中高松城攻略(水攻め)相手は清水宗治
同年6月2日 本能寺の変:和睦して中国返しを提案
同年6月13日 明智光秀との「山崎の戦い」
天翔11年(1583年)4月 柴田勝家との賤ケ岳の戦い
天正12年(1584年) 小牧・長久手の戦いでは大阪城留守居役
本戦の中盤以降 召喚で撤退戦でのしんがりを務める。
   7月 播磨国宍粟郡5万石を賜る
天正13年(1585年) 宇喜多秀家軍に軍監として四国攻めに加わる。
同年 キリシタンに入信・洗礼で「シメオン」と。
天正14年(1586年) 従五位下・勘解由次官
  10月 毛利氏などを含む軍勢の軍監で吸収征伐に参戦
天正15年(1587年)7月3日 豊前国の中の6郡12万石を賜る
天正16年(1588年)1月頃 中津城完成
天正17年(1589年)5月 家督を長政に譲り隠居も秀吉に使える
天正18年(1590年) 小田原征伐で無血開城を果たす。
北条氏直より 名刀「日光一文字」を賜る
文禄元年(1592年) 文禄の役に軍艦として参加
文禄2年(1593年)8月 剃髪して「如水軒円清」と号する
慶長2年(1597年)~ 慶長の役の最中で二男「熊之助」を船の事故で亡くす。
慶長3年(1598年)8月 関白殿下秀吉死去
慶長4年(1599年) 前田利家死去で一挙に情勢が緊迫する
慶長5年(1600年)6月2日 家康公「上杉景勝」の討伐令
   6月6日 長政、家康養女「栄姫」と再婚
  7月17日(8月25日) 石田三成挙兵で関ケ原の戦いにまっしぐら
慶長5年9月15日(1600年10月21日) 関ケ原の戦い
同年 九州でめいっぱいの軍を率い平定に暗躍。武功を上げる。
11月12日 家康公の停戦命令を受けて全軍解散。
関ケ原合戦後 長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増。
この際官兵衛にも領地加増も辞退する。隠居生活。
慶長9年3月20日(1604年4月19日) 辰の刻京都伏見藩邸で死去。享年59歳。
辞世の句 おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて

見事な人生。
戦乱の戦国の世を、合戦の中で生き抜いてきた人生は、見事としか言いようがありません。
しかし、59歳とは早いですね。
鎌倉殿の時代でも「80代」まで健在な方は、多数いるのにどうして?
やはり、やりがいとか、生きがいとか、人生にぽっかりと穴が開くと、その限りではないのかもしれません。

張りつめて、生きるか滅亡かの世界を生き抜いてこそ、長生きの秘訣なのかもな~~と。
よく、定年するとまさか‥という方いますが、同じようにも感じす。

黒田官兵衛の石高と領地の推移!

「黒田官兵衛」
の領地は、なんとも少ないです。
後に、太閤検地での実態は、見かけ以上だったとはいっても、貢献から言えば
「100万石」
クラスかな~~と。
以下の表にまとめてみました。

天正8年(1580年)10月 揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石賜る。
天正12年(1584年)7月 播磨国宍粟郡5万石を賜る
天正15年(1587年)7月3日 豊前国の中の6郡12万石を賜る
関ケ原合戦後 筑前国名島(福岡)52万石

と、こんな感じの表向きになります。
関ケ原の時点で「黒田官兵衛」にも、相応の・・という提案があったようですが「辞退」。

が・・例えば「豊前国」の12万石。
太閤検地の際は:14万石。
が・・関ケ原の時に「黒田長政」は
「五千」
の兵で参戦。
が・・おかしなことに九州の戦で、「黒田官兵衛」の基にはまだ
「五千」
の兵が。
しかも、財政が豊富で、どんどん兵を雇っていきます。
最初に1万の兵員の動員力があると、石高では1万石で250人と計算すると
「40万石」
ですね~~
そこまでなくとも30万石近くの実力はあったのでは、その「豊前国」は思います。

  • 太閤検地:14万石
    寛永の検地:32万石

この検地の差は?
恐らくですが、太閤検地の際に何かの手を使って
「過少申告」
又は、検地の責任者が忖度した可能性も。

然し、秀吉子飼いの大名は、ほとんどが20万石以下。

  • 福島正紀:24万石
    加藤清正:19万五千石

黒田如水にしても、こんなものかと。
然し、もしかしたらうまくやったのかもしれませんね。

いずれ、関ケ原後は「52万石」の大名で、しかも後述しますが、徳川の世では代々継続の家康公のお墨付き迄。

黒田官兵衛の家紋と死因と墓所!

黒田官兵衛の

  • ・家紋
    ・死因
    ・墓所

を解説します。

黒田官兵衛・黒田家の家紋は「藤巴」!

「黒田官兵衛」
の家紋は「藤巴紋」と言います。
実はこの家紋は「黒田官兵衛」も使用しますが、元は藤原氏の代表紋。

盟友「荒木村重」の説得に有岡城に出向くも、逆に「幽閉」されてしまいます。
その粗末な独房の窓の格子の隙間から、たくましく大きく育ってゆく
「藤蔓」
に励まされて、獄中生活を生き抜いたと。

そこで、その藤にあやかり
「藤巴紋」
を選んだと。
が・・実は、この藤巴紋は「蛇」が絡み合ってるように見えると。
此の蛇にあやかった紋は

  • ➀:蛇の目
    ➁:三つ巴

などがあり、藤巴紋もその一つという説もあります。
藤を「蛇」に見立て・・蛇:渦巻・・
従って、この紋は蛇を強く意識した紋という説も。

確かに、黒田官兵衛の目にそういう光景も、外には見えたかもしれませんし、単純に藤の蔓のみを意識したのかもしれません。
いずれ、この
「藤巴紋」
が、黒田官兵衛の家紋です。

黒田官兵衛の死因は?59歳で行くにはまだ早すぎるような!

「死因」
は諸説あるようですが、決め手はありません。
「梅毒」
という説もありますが、主張するには矛盾が多く、やはり決め手に欠きます。

当時の寿命としては「59歳」は一般的に感じます。
父の「黒田職隆」は62歳。
祖父の「黒田職隆」は57歳で亡くなっています。

なので、代々の年齢から言ったら、やはりこれは寿命だったのかと。
辞世の句は、上に書きましたが

「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

戦国時代を駆け抜けた英雄らしいな~~と、個人的には感じました。

黒田官兵衛の墓所は国宝の「崇福寺」と「龍光院」!

「黒田官兵衛」
の墓所は以下。

  • ・京都「臨済宗大徳寺」の龍光院:黒田長政建立。
    ・福岡市博多区の崇福寺(そうふくじ)

京都「臨済宗大徳寺」の「龍光院」は、国宝で重要文化財を多数所有。
が・・一般公開はされてないようです。
特別公開もなく、拝観謝絶の寺院です。

初代筑前福岡藩主の「黒田長政」が、「黒田孝高(官兵衛・如水)」の菩提を弔うために建立。
「龍光院」
の命名は「黒田官兵衛」の法名の
「龍光院殿如水円清大居士」
に由来します。

「崇福寺(そうふくじ)」
は、創建が「1240年」とあり、とても古いお寺なんですね。
此方も「臨済宗大徳寺派の寺院」になります。

1600年(慶長5年)、京都大徳寺住持を務めた春屋宗園の請を受け、福岡藩初代藩主・黒田長政によって現在地の福岡市千代町に移転、建立開基された。これ以降、福岡藩主黒田氏の菩提寺として庇護を受ける事となる。境内北側には藩祖黒田孝高や長政ら藩主代々の墓所がある。
(wikioediaより)

戦前は多くの国宝があったようですが、空襲で焼失したものが多数とあります。
もったいないですね。

場所のマップは以下。


(googleマップより)

今の時代まで、きっちりと受け継がれていますね。
2014年に16代「黒田長高」さんという方から、墓所を福岡市に寄贈されたと。
市の都合のようですが、いろんな歴史を変遷してきたお寺さんでもあります。

黒田官兵衛は築城の名人!手がけた城の代表例!

「黒田官兵衛」
は築城の名人です。
手がけた城を、ざっと列挙してみます。

  • ➀:妻鹿城
    ➁:中津城
    ➂:福岡城
    ➃:姫路城(共作)
    ➄:大阪城
    ➅:讃岐高松城
    ➆:石垣城
    ➇:名護屋城
    ➈:広島城

などなど・・たくさんの城の築城に参加しています。
熊本城の築城で(改修)で有名な
「加藤清正」公
はこんなエピソード。

「俺の城は~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちない」

と、その城の築城技術・・というかレイアウトになるのかな~~とも思いますが、そんな評価をしています。
加藤清正公も築城の名手です。
その方の評価ですから、とても重みを感じます。
・・・・・・・・・・・・・
徳川家康公の子孫の方とその後を解説しました。

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

井伊直政・・言いの赤備えは有名です。

井伊直政の関ケ原先鋒のエピソードは?ゆかりの地や家康公との関係!

家康公との関係など解説。
・・・・・・・・・・・・

黒田間米所有の名刀「へし切長谷部」!


(写真はイメージです)

「黒田官兵衛」
の遺品での日本刀(愛刀)は、とても素晴らしい物がありますね~~驚きました。
以下。

無銘一文字(名物日光一文字) 国宝:小田原征伐の際北条氏直より送られる
へし切長谷部 国宝:美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際拝領
備前長船祐定(安宅切 四国攻めで安宅河内守を討ち取った時に使用したと。

いずれも、「福岡市美術館」に保存されてるとのこと。
こう言った歴史的な価値のあるものが、保存状態もよく現代まで保管されてるのは、とても素晴らしいことだと思います。

黒田官兵衛の逸話と人となりを表すエピソード!!


(写真はイメージです)

「黒田官兵衛」
にはいろんな逸話が残されています。

①:徳川秀忠公:「黒田孝高」を評し「今世の張良なるべし」

張梁は、漢の高祖の懐刀(軍師)でした。
漢の建国には「張梁」はなくてはならない存在。

遺訓:「人に媚びず、富貴を望まず」

この遺訓はいいですね。
人にこびず・・確かに。
富貴を望まず・・何かとこれに走る方は、世の中の話題になりそうな予感がします。

家康公は、関ケ原の戦いの後「黒田長政」の手を握って

『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』

と言って感謝したと。
しかし「官兵衛」は、それに対し

「その時、お前の左手は何をしていた?」

と言って叱責したと・・
しかし、これは事実とは違うというのが、最近の認識のようですねが、事実と違っても、もっともらしく聞こえるのはやはり
「黒田官兵衛」
ならではかと。
関ヶ原の戦いのときの逸話。
慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた手紙。

「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」

その先のことまで、頭の中ではイメージできていたんだと思います。
九州を平定して、勢いをかって中国と四国に進軍。
いい歴史が作れたような気もします。
ロマンを感じるな~と。

皆さんはいかが思いますか?

黒田官兵衛は天才軍師!現代なら・・・まとめと感想!

「黒田官兵衛」
を評した「小早川隆景」の言。

「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」
(wikipediaより)

確かに、中国大返しの進言は、本能寺の変の発生の報告を受けて、おそらくその場でのこと。
悲しみのつかの間、次のことを即刻判断する切れ者ですね。
「小早川隆景」
の人物評は、かなり的を得ているようにも思います。

が、後悔することは、何かあったのかな~~と。
「豊前国」
12万石拝領の際の国替えの、地元豪族の「城井鎮房」の件などが、あるのかな~~と。
大河ドラマでは、泣く泣く・・・の場面でした。

黒田官兵衛が現代の時代なら?

「黒田官兵衛」
の名言に以下のような言葉が。

「自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせなさい。そうすれば、叱ったり脅したりしなくても自然に威は備わる」

これですね。
企業において、賞罰はすごく大事。
しかも公平感を持っていないといけません。
もう一つ。

自分の古い物を過信に譲っていました。
気になった家臣の一人が

「どうして家臣に売るのですか?あげてもいいではないですか?」

すると官兵衛は

「あげると、誰それにあげて、俺にはもらわないと不満が出る。だから売る。売ればほしい人は買うし要らない者は買わない。」

確かに。
人間って、ただって聞くと欲しがる人いますよね~~
要らないものを買う方はいないはず。
官兵衛の人を使う、また接し方の一例ですが、これを見ると現代では最も大事なことを、心得ていて今も昔も人を使う術は同じだな~~と感心した次第!

皆さんはどう思いますか~~~~?
・・・・・・・・・
武田信玄の石高の推移を年表にしてみました。
素晴らしい増え方です。

武田信玄の石高の推移年表と兵力動員数!家系図(系図)と子孫その後!

織田信長の、正室は「濃姫」ですが、子供の人数とその後を紹介しました。

織田信長の正室と側室と子供は何人?息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生!

側室の方についても解説。
・・・・・・・・・・・・・・
*ヘッダーの写真は毛越寺の風景の写真です。

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