上杉謙信公の家紋や名言や辞世の句について、意味を深堀してみようと思います。
「極楽も地獄もさきは有明の月の心にかかる雲なし」の辞世の句は、謙信公らしい義を全うしたからですね。
また亡くなった最後の状態や死因や、お墓などの埋葬場所などについても、上杉家の墓所の場所について調べてみたので紹介します。
家紋は「竹に二羽飛び雀」です。
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上杉謙信公の家紋は「竹に二羽飛び雀」と「五七桐」!
上杉謙信の出身は、三条長尾家。
長尾氏の家紋は元々は
「九曜紋」
と呼ばれます。
越後長尾氏は、元は桓武天皇の子孫である、「桓武平氏」である、鎌倉一族。
なので、多くの桓武平氏の子孫の方はこの
「九曜紋」
を家紋にしていたようです。
しかも、同じ九曜紋でも丸の中の紋を「巴」にした
「九曜巴」
を使用していたとされています。
太鼓の皮に貼られる紋が巴ですね~~
一方、関東管領職の上杉家の家紋はこの竹に雀なんだな。
越後守護代の「上杉定美」氏は、子がなく越後一国の内乱を鎮め、越後長尾氏の3つの氏族をまとめた、上杉謙信(当時は景虎)に、守護職を譲りました。
その上司は関東管領職の「上杉憲政」ですが、こちらは、関東管領職を「上杉謙信」に禅譲。
その時に譲り受けたものの中に「家紋」もあったんだな。
これが竹に雀の家紋です。
上杉謙信の家紋と言えば(上杉家)
「竹に二羽飛び雀」
が有名です。
この画像に寄ります。
この竹の文様は「上杉笹」と呼ばれます。
しかし、笹の葉の枚数ですが、3枚の図柄もあるようです。
どっちが正しいのか、調べてみたのですが、明確にはわかりませんでした。
ただ、関東管領の「上杉憲政」の家紋は、葉の枚数が五枚です。
いずれ、同じ家紋でも何種類かを有しているようです。
しかし基本は「竹に二羽飛び雀」です。
しかしもうひとつあるんだな。
「五七桐」
の家紋です。
これは、天皇家など特殊な方しか、用いられない紋です。
(恐れ多いので画像は遠慮いたします)
上杉謙信が、「1559年」上洛し「正親町天皇」に謁見した際に、天皇より下賜されたものと言われます。
現在では、菊の紋の次の格式に該当するようですね。
総理の記者会見の演題にも、この家紋があったように思います。
いずれ上杉家の家紋は、この2つになりますが多くの場合は「竹に二羽飛び雀」です。
上杉謙信の辞世の句の内容とその意味を解釈してみる!
上杉謙信公の辞世の句は以下のようなものになります。
いかにも、お酒好きの謙信公ならではの内容に感じます。
「一期の栄は一盃の酒 四十九年は一酔の間 生を知らず死また知らず 歳月またこれ夢中の如し」
一杯の盃に、人生を凝縮し、人生は酔ってる間の夢!
生きることも、死する事もなく、人生これ夢の中のこと・・・かな・・多分。
もう一つ、こちらも辞世の句ではないかといわれています。
「極楽も地獄もさきは有明の月の心にかかる雲なし」
死んだ先の行き場所が、地獄であろうと極楽であろうと構わない。
なぜなら私の心は、有明の月のように、一点も曇りもない・・そんな意味かと。
義を重んじ、義によって戦さ場を駆け巡った人生で、まるで侵略に縁がない方でしたが、そういった意味では、一点の曇りもない人生に感じます。
今の時代こういう方いるかな?
さて?
思いつきません。
上杉謙信公の死因は?現在のお墓は米沢の上杉御廟!場所のマップも!
以下のように説明されています。
3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去した。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。
(wikipediaより引用)
お酒が大好きだったので、高血圧気味だったのかもしれません。
すごく残念です。
亡くなったのは1577年です。
関ケ原の戦いが、1600年です。
あと23年。
十分に射程圏内でしたね。
もしかしたら(タラレバは禁物ですが)、豊臣政権にはくみせず、それこそ伊達政宗、徳川家康公を巻き込み、一大決戦だったかもしれません。
墓所は米沢市の、上杉御廟ですが、ここには依然行ったことがあります。
またお参りしたいですね。
場所はこちら!
米沢市のほぼ中心部。
米沢駅からだと、歩いて結構ありそうです。
米沢線の、「西米沢駅」からだとすぐですね。
上杉謙信公の名言集!家訓十六ヶ条の碑!
上杉謙信公の御廟の入り口に、上杉家の「家訓十六ヶ条」の碑が立っているようですね。
沢山の名言がありますが、これをもって、私は名言としたいと思います。
以下のようです。
- 一.心に物なき時は心広く体泰(やすらか)なり
一.心に我儘(わがまま)なき時は愛敬(あいきょう)失わず
一.心に欲なき時は義理を行う
一.心に私なき時は疑うことなし
一.心に驕(おご)りなき時は人を教う
一.心に誤りなき時は人を畏(おそ)れず
一.心に邪見(じゃけん)なき時は人を育つる
一.心に貪(むさぼ)りなき時は人に諂(へつら)うことなし
一.心に怒りなき時は言葉和らかなり
一.心に堪忍(かんにん)ある時は事を調(ととの)う
一.心に曇りなき時は心静かなり
一.心に勇みある時は悔(く)やむことなし
一.心賤(いや)しからざる時は願好まず
一.心に孝行ある時は忠節厚し
一.心に自慢なき時は人の善を知り
一.心に迷いなき時は人を咎(とが)めず
いずれこれは、心の在り方を説いているようです。
この言葉を、全部全うすればどうなるんでしょうか?
悟りの境地??
一般人には、なりえそうにもないような、内容に感じます。
しかし、一言一言を、かみ砕いて読んでいくと、いずれすべてそのように感じます。
全部は暗記できないな!
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上杉謙信公の家紋や名言などの感想とまとめ!
上杉謙信公の、側面について調べてみてきました。
家紋ですが、これは同じ上杉でも、数種類存在するようですね。
笹の数が違います。
これについての私の感想は書きましたが、関東管領の「上杉憲政」より、譲り受けた家紋は、やはり関東管領の家紋の、上杉なんだと思います。
なので、その時の家紋の笹は「5枚」なので、当初は5枚だったのでは?
そう思いました。
戦国武将で、数少ない名門での藩を維持した、上杉家はある意味、貴重な存在に感じます。
武田家は滅んでしまいましたし、この時代の名だたる諸将は、江戸時代までの存続は、かなり厳しかったんだと思います。
まして、100万石以上の藩となると、カリスマが去ればそこはまさに、草刈り場だったかもしれません。
それを維持し、死守した上杉景勝と補佐した、直江兼続は立派だったな~~と感じた次第です。
皆さんは如何思いますか~~~??
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兵力動員数についても、すいてしてみました。
*家紋の基本は崩さずとも、複数あるんですね~~多分!
ヘッダーの写真は、私が撮影した仙台市の、仙台城址公園の夜景の写真です。
仙台の観光では、とても人気の場所です。
石垣がすごいですよ~~~