伊達政宗公の、誕生から関ケ原以前と、以後での石高の推移と、戦国の世での戦の系譜などを、年表形式で見ていこうと思います。
家督を相続して、一転しての好戦的な領地拡大で、ピークからの石高の変遷や、国替えなどは驚きます。
遅すぎた、英雄の出場だった気がしますが、だから歴史は面白いのかもしれません。
Contents
伊達政宗公の家督相続時の石高は何万石だ?
伊達政宗公の誕生は
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城に生まれました。
父:伊達家26代当主:伊達輝宗
母:義姫:最上義光の妹
です。
父の、伊達輝宗は奥州では大きな勢力を持っていましたが、しかし直轄領ではなく、融和な政策が中心で、力の均衡を重視する政策のようでした。
名前は「梵天丸」で、のちに元服
1977年(天正5年):伊達藤次郎政宗
となります。
伊達家には「政宗」が、室町時代の第9代当主にもいるようで、輝宗はその中興の祖ともいえる、第9代政宗公にあやかったといいます。
「藤次郎」はその区別するために、つけたと。
ちなみに9代の政宗公は「大膳太夫政宗」とう言います。
1979年13歳:愛姫(12歳)との婚儀が田村藩との間で成立。
初陣は15歳:1581年(天正9年):相手は相馬氏で伊具郡に出陣
このころより、父輝宗公の代理で外交を担当。
非凡な才能は、父も見抜いていたことがうかがえます。
家督相続:1584年(天正12年)(18歳)
18歳で、家督を相続した時の石高は、推定ですが
「30万石」
です。
これは諸説あるようですが、このくらいの数字が、どうやら妥当のようです。
米沢は、雪が深いです。
福島からの国道沿いは、冬には壁並みの除雪の雪が、立ちはだかり、私も行ったときは驚きました。
直江兼続が、上杉景勝の家老時の30万石が、そのまま関ケ原後の減封で、そのまんま上杉領になったわけです。
いずれ30万石の、財産を引き継いで伊達家17代当主が、誕生したんだな。
ここから破竹の勢いが始まります。
伊達政宗公の石高推移関ケ原以前の豊臣秀吉以前の年表!
(管理人撮影:仙台城址公園から見た仙台市内の風景)
資産(石高)の、推移と言えば増加が激しい場合は、戦国の世です。
言わずと知れた、領地を奪い取るには戦が欠かせません。
当時のそれが、戦国武将としての生業かと。
1585年5月(19歳):会津蘆名氏の領土に侵入し、初戦は敗退。
同年8月:大内定綱方の小手森城を攻略。城兵500人他の全ても許さなかった仕置きが、周辺諸国で有名に。
間髪おかずに二本松城攻略
同年10月:畠山義継の計略で父輝宗公早世(内容には諸説あり)
同年11月:佐竹蘆名連合軍3万と、伊達軍8000が人取り橋で激突。完全な負け戦で、政宗公自身もけがを負う。しんがりが宿将・鬼庭左月斎で勇猛果敢な働きで、何とか二本松に逃れる。
1586年7月:二本松を責める。二本松城無血開城で伊達領に。
1587年12月:この年豊臣秀吉が「惣無事令」(戦禁止)を出したが無視した。
1588年1月:10000の兵を、大崎氏攻略で派兵。が‥2月2日の戦で敗北し撤退。さらに和議成立で2月29日に撤退したとあります。
さらに悪いことに、母方の兄の最上義光が、大崎氏支援で出兵。南側では蘆名義広が出兵で、伊達政宗は北と南から攻められ、万事休す!
ここで母の愛が‥兄の最上義光に停戦を懇願・・戦場に輿で現れ、小屋を建てて3か月。これには双方、手を焼いてめでたく停戦成立したんだな。
この年5月:小手森城再度奪還。
蘆名氏と戦闘勃発も勝敗つかず、7月に撤退。
この年8月:三春城に入り、愛姫の田村宗顕を田村氏当主に据え、再興させる。
ここがターニングポイントだったように感じます。
ここまでは、ごたごた続きの、戦に勝ったようでも、負けたようでもなく、まさに一進一退!
人取り橋での敗戦は、政宗公にとっては、最大の危機でした。
1589年4月:2万の軍で本宮城に入る。
この大軍を目の前にして安子ヶ島城、駒ヶ嶺城、蓑首城などなど、次々と降伏。
懸案の、猪苗代城も調略で陥落。
最大の運命を分けた摺上原の戦い!
ここは蘆名氏との決戦でした。
蘆名勢は16000で高森山に陣を張る。
伊達勢は23000で八ツ森に布陣。
激突は1589年6月5日朝6時ころと言います。
しかし、蘆名勢16000と言っても、借りてきた兵士や、迎合の衆なので、一枚岩でなく早々に崩れて撤退。
総崩れとなり、猪苗代湖から流れる日橋川に殺到!
しかし、伊達軍は事前にこの橋を破壊。
溺れる兵士が続出で、1800名ほどといわれます。
他に、戦での討ち死にも多数で、関ケ原の合戦時に匹敵するともいわれるようです。
いずれ、伊達政宗公の大勝利で、蘆名氏は佐竹氏を頼り、逃走し蘆名氏はこの戦で滅亡しました。
最大石高を決定づけた須賀川城の戦い!
1589年7月:奥会津の山之内氏他も討伐
蘆名氏滅亡で、蘆名氏傘下の城持ちの豪族も次々と臣従。こうなると、力の意味が分かりますね。
が・・最後に残ったのが「須賀川城」です。
須賀川城・二階堂家の事実上の当主は阿南姫。
なんとなく「井伊直虎」を連想してしまいます。
再三の降伏にも、頑として従わず。
10月26日:須賀川城を総攻撃。もろくも一日で決着したんだな。
その後、石川城を居城とする、石川昭光も帰順し、ここに
「仙道七郡」
を、支配することになったわけです。
伊達政宗公の、石高はここで極まりました。
(管理人撮影:仙台城址公園から見た仙台市内の風景)
伊達政宗公の石高推移の最高額は?
この時点で、本領と会津4郡・仙道7郡を合わせてることに。
陸奥(東北の太平洋側)・出羽(秋田と山形)合わせて66郡のうちの約半分を占めました。
陸奥の国とは
- 1:青森県
2:岩手県
3:宮城県
4:福島県
5:山形県の一部と秋田県の一部
のことを言います。
いずれ現在の、福島、宮城、山形の米沢30万石などを足すのですから、石高は優に
「140万石」
だといいます。
そのうち直轄領が114万石。
大崎氏・葛西氏もが傘下に入ったことで
「140万石」
というようです。
いずれ、100万石以上の大名と言えば
- 1:豊臣秀吉
2:前田利家
3:上杉謙信
4:武田信玄
5:織田信長
6:毛利元就(輝元)
などなど・こんなところではないでしょうか?
まさに、歴史的にそんな方と肩を並べた・・そういっても過言ではないと思います。
しかしながら驚くべきは、家督を相続したのが「1584年」で、この大計がなったのは、「1589年」です。
わずか4年しかたっていません。
22~23歳の、若者です。
驚きます。
仙道7郡を手に入れたことが、うれしかったんだと思います。
歌を詠んでいます。
七種(ななくさ)を 一葉によせて つむ根芹(ねぜり)
が・・この後に、ドラマが待っていたんだな~~
伊達政宗公の石高推移関ケ原以前の豊臣秀吉以後の年表!
さて、時代はいよいよ豊臣秀吉の時代に突入です。
豊臣秀吉のおふれ・・
- 1586年:『関東惣無事令』(北条がターゲット?)
1587年:『奥両国惣無事令』(最上と伊達がターゲット?)
を発布。
「俺の時代だから、勝手に大名同士で戦をしたら、成敗するぞ!」
そんな内容の、命令です。
それを、やりそうな大名にめがけて、まだ帰順していないのは誰だ?
そういう名目なんだべな~~と、私自身は勝手に思ってしまいます。
勿論、北条も伊達もそんなものは無視。
おそらく、伊達政宗公は豊臣秀吉の勢力がどん位か、及びもつかなかった?のかもしれませんね。
しかし・・北条は1589年、これを破って真田氏の名胡桃(なぐるみ)城を奪取するという、暴挙(かどうかはいざ知らず)に出ます。
北条征伐の、名分がここにできたわけです。
伊達政宗は大いに悩み続け・・北条とは同盟関係にあったんですね~~この時期には。
が・・時は今・・かどうかは別として、豊臣秀吉に帰順。
小田原に参陣。
そして、北条氏滅亡後に宇都宮城において「奥州仕置き」(宇都宮仕置きともいう)を行ったわけです。
そこで、命令違反や、北条征伐の遅参を理由に会津領は没収!
せっかく手に入れた「仙道7郡」がなくなった!!
がっかりしたでしょうね~~
しかしながら、旧領は安堵で
1590年:「72万石」
は安泰でした。
これだけでもすごいですね。
しかし、会津に入った蒲生氏郷との確執で・・大崎葛西一揆の平定をしたのですが、それを先導した嫌疑が・
それにより仕置きが大幅に変更。
1591年(天正19年):58万石
さらにこの時、米沢を没収で一揆があった葛西、大崎氏の所領の13郡に減らされたんだな。
これは痛かったのですが、そのおかげで今の宮城県が、伊達藩になったんだな。
本拠地は岩出山です。(今の城山公園)
以下の写真は、城山公園(岩出山城跡)の伊達政宗公の像です。
(管理人撮影:城山公園(岩出山城跡公園)の伊達政宗像)
ここまでが、関ケ原以前の石高になります。
最終的には、関ケ原以前の石高は
岩出山城:58万石
ですね。
兵の動員数はいかほどでしょうか?
一般的には1万石あたり:250人ですから
「14.500人」
となります。
しかし、現実的にはどれだけの経済力を有していたかで、それは前後すると思います。
おそらくですが、この兵力は城の守りを除いて、戦に連れていける兵力ではないかと、自分なりに解釈しています。
関ケ原の、布陣でいくら何でも石高に見合わない、多くの兵を連れてきている武将が、結構いるようですから。
いずれ、これで、関ケ原以前の石高は、確定のようですね。
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伊達政宗の、正室は愛姫ですが、側室も数人います。
その子供名前や、処遇などを調べてまとめてみました。
伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?
伊達政宗公の家紋や名言と、宮城県内での3体の像について、実際の管理人撮影の写真を紹介しました。
伊達政宗の家紋と名言と遺訓!象の3体の写真紹介!墓所の写真紹介!
伊達家の祖は「伊達朝宗」。
伊達藩(仙台)の祖は伊達朝宗!家系図と子孫の現在!政宗は二人いる!
伊達政宗公は17代目です。
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伊達政宗公の石高推移関ケ原以降の年表!
(管理人撮影:仙台城址公園から見た仙台市内の風景)
さて・・歴史は大きく動きます。
太閤殿下が亡くなり、歴史は徳川氏の時代に。
関ケ原で、有名なのは上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の、自力回復を許す旨の書状をいただいたんだな。
俗にいう
「100万石」のお墨付き。
ただしこれは、切り取り自由という、お墨付きです。
が・・これにはいろんな、徳川家康公の思惑があったようです。
結局、関ヶ原の戦で切り取った領地は、陸奥国刈田郡2万石のみ。
これで60万石です。
他に、近江国と常陸国に小領土の飛地2万石の加増で62万石となり、大大名になるのですが、恩賞はなしなんだな。
それもそのはず、蒲生氏郷との時のように、どさくさに紛れて、一揆を先導し南部藩に侵攻したことがばれてしまったのですが、おとがめなしでよかったのかと。
1600年(慶長5年):62万石
1601年、徳川家康公の許しの下、仙台に居城を移すべく、城の建設(仙台城)に着手。
ほどなく、岩出山城から仙台に拠点を移し、名実ともに
「仙台藩」
が誕生しました。
しかしながら、当時の仙台はまさに荒れ地同然。
城下町は、延べにして100万人以上が動員された、一大事業だったと。
伊達政宗公の特徴は血気盛んでじっとしてられない性格かも!
その後の石高は変わらず、大坂冬の陣、夏の陣ともに大きな功績もなく、賞罰もなく太平の世、いわゆる徳川氏の治世に向かって、江戸の時代を迎えます。
スカスだ・・
伊達政宗という方は、豊臣秀吉の会津の時の、蒲生氏郷の件と、関ケ原の北の南部への一揆の扇動と、二度も同じことをやってバレてしまっています。
ちょっかいを出したいのか、それとも世の中に反抗しているのか・・何かをしでかすような、そんな警戒の人物だったのかもしれません。
上の図は、仙台藩の知行の面積を表した、詳細の公文書です。
「宮城県の歴史」(高橋富雄著 山川出版)よりの資料です。
これを見て思うのですが、一揆での話題になっている、葛西氏と大崎氏ですが、大きな石高ですね。
それに比較して、旧領の伊達領ですが、たったの20万石程度しかありません。
これは、2回目の奥州仕置きでの、旧領の没収で岩出山に国替えの、懲罰的な仕置きだったことが明らかですね。
没収された置賜郡、伊達郡、信夫郡、安達郡、田村郡は、5郡で約50万石です。
何度も一揆で荒廃した葛西大崎氏の領地。
でも、内政に努めた結果は、今でもそのあとが見て、とてもいいものを残してくれたと、わたくし地元宮城県民としては思います。
(管理人撮影:仙台城址公園から見た仙台市内の夜景の風景)
伊達政宗公の存在する意義を考えてみた!
まさに天下のご意見番・・だったのではないでしょうか?
怖いもの知らずで、多少のおきて破りも何のそので、最終的にはお家断絶でも、一戦交えるのみ!
そう思っていたと、私は確信します。
なので、大坂夏の陣での味方殲滅でも、奥州仕置きでも、徳川家康公の100万石のお墨付きを逆手に取った仕置きでも、何ら悪びれることはなしに
「是非もなし」
だったのかもしれません。
大坂夏の陣での、真田幸村との合戦では、いったん引いています。
これは明らかに、勢いに押された?
いえいえ・・なんか密約が感じるな~~もしくは、かなり高度な駆け引きを感じます。
また、真田の子息を引き受けたことも、片倉小十郎が単独で行ったことではないと思います。
表向きは、そうなっていたのかもしれませんが。
この辺の記述「司馬遼太郎」の城塞かな~~確か、それにこのシーンが出てきます。(ずいぶん以前に読んだので、記憶違いなら・スイマセン)
とても感動します。
・・・・・・・・・・
徳川家康の子供と側室の名前は?
また、その待遇についても調べてみました。
さすが、天下人ですね。
徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?
徳川家康公の、石高の推移をまとめてみました。
徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で!幕府開始時は幾ら?
とんでもない勢いで、増えていったのがわかります。
驚きますよ~~~
・・・・・・・・・・
*私は宮城県在住で、伊達藩直轄に住んでいます。
なので、かなり贔屓目がありますし、自分の主観も入れて書いてますので、???な部分があっても容赦ください・
ヘッダーの写真は、私が撮影の仙台城址公園の、伊達政宗像です。